先月(4月)中旬、ビルマ(ミャンマー)のアウンサンスーチーさん来日の様子を、多くのメディアが報道していました。
滞在中は政府要人との会見を初め、数カ所の大学を訪問して講演をされるなど、精力的に活動し、大勢の人々とのふれあいを大切にされるお姿がとても印象的でした。
私の母校でもある、浄土真宗の教えを建学の精神とする京都の龍谷大学での講演は、仏教徒としてその教えに沿って生きるスーチーさんの思いが特に深く込められたものであったようで、その講演の要旨が毎日新聞に掲載されておりました。
半世紀にわたる軍事政権下のビルマでは、怒りや争いが途絶えたことがなく、常にどこかに武器があり、未だに暴力での解決を望む人も少なくないそうです。
そのような状況の中でも、仏教徒は常に
「非暴力」
を貫き、復讐や権力を求めるということではなく、真の平和、平等の世の中を目指し、対話を持って問題の解決にとり組んできました。
仏教の実践とは、
「相手を慈しみ、大切にすること」。
相手が仏教徒であろうとなかろうと、どんな宗教であるかは関係なく、宗教で人々を隔てたり軽視したりすることがあってはならない。
それは真の仏教の道ではない。
たとえ自分と信じる宗教は違っても、全ての人々に対して平等に敬意を表し、同じように愛し慈しみ合うことが必要であるとお話しになっておられました。
また一方で、人々が慈しんでくれることを当たり前と考えてはいけない。
慈しみや優しさは要求したり、あるいは強制したりするものではない。
それは、自発的に与えられるものでなければならないともおっしゃっておられます。
記事の中で私が最も心動かされたのは、
「人間は最善のことができるのと同時に、最悪のこともできる」
という言葉でした。
まさに縁に触れれば何をしでかすか分からない私たち人間の持つ怖さを、体験をもとに実感を込めて述べておられるような気がいたします。
ほんの今まで平穏な心であったとしても、ちょっとした出来事や言葉がきっかけとなり、一瞬にして怒りや腹立ちの心に気持ちが入れ替わることは、往々にしてよくあることではないでしょうか。
スーチーさんの言葉の数々から
「仏教の実践」
ということの難しさを改めて問い質されたような気がしたことです。