真宗講座末法時代の教と行 5月(前期)

はじめに

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもて、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。

『歎異抄』の結びに記されている親鸞聖人の言葉です。

親鸞聖人は、私たち一人ひとりが織りなす行為の一切を

「そらごとたわごと、まことあることなし」

としながら、その中にあってただ一つ例外的に

「念仏」

のみを真実(まこと)と捉えておられます。

人間社会の出来事の全てを不実とおさえながら、なぜ親鸞聖人は念仏の中にのみ真実を見出されたのでしょうか。

その理由は簡単であって、この念仏を仏のはたらきだと見られたからに他なりません。

ここに親鸞聖人の

「念仏思想」

の独自性があり、他の仏教者には見ることのできない、おそらく親鸞聖人ただ一人の思想の特殊性が窺えます。

親鸞聖人のこの念仏思想は、『無量寿経』に説かれる第十八願の

「十念」

の教えを根源的な根拠にしておられることはいうまでもありません。

ところで、この

「十念」

とは、本来は阿弥陀仏を信じ一心にその浄土に往生したいと願う

「願生心」

の相続を意味する言葉でした。

ところが、中国浄土教においては、念仏思想の範疇の中で論ぜられることになり、さらに善導大師に至って

「南無阿弥陀仏」

の六字の名号を十度称える

「十声の称名」

の義に解されるようになりました。

そこで、善導大師の思想を承け継いでいる日本浄土教においては、

「十念」

といえば直ちに

「十声の称名」

念仏の意に解されている訳です。

こうして、親鸞聖人の

「念仏」

義は、名号・信心・称名といった意のすべてが有せられることになり、いわばそれらの義の総称が

「念仏」

という言葉で語られていると見られます。

ここに、親鸞聖人の念仏思想の今一つの特徴があると言えます。

けれども、仏教思想の常識から言えば

「念仏」

とは迷える衆生が、悟りを得るために修する行業の一つです。

念仏とは、どこまでも衆生の修すべき行業の一つなのであって、念仏が

「仏の行為」

だというような意味は、仏教思想のどこにも見出すことはできません。

にもかかわらず、なぜ親鸞聖人においては、

「大行」

という阿弥陀仏の廻向行の意が念仏義に成立し得たのでしょうか。

そこで、親鸞聖人にとって、念仏道とは何であったのかを求めてみたいと思います。