親鸞・紅玉篇 5月(2)

中務省へ、使に走った者は、省の役人から、むずかしい法規と諮問をうけて、手間どっているのであろうか、なかなか、戻ってこなかった。

青蓮院のひろい内殿は、どこかの筧(かけひ)の水の音が、寒い夕風を生み、塗籠(ぬりごめ)からは、黄昏(たそが)れの色が、湧いてくる。

供の侍従介は、さっきから、廊の端に、坐ったまま、苑面(にわも)にちりしく白い桜花をじっと見入っていた。

「おそいのう」

慈円僧正は、気の毒そうにこうつぶやいた。

ゆらゆらと、短檠(たんけい)の灯が、運ばれてくる。

「官の小役人には、法にしばられて、法の精神を知らぬものがまま多い……。

こう遅うては、みずから参って、説かねばならぬかも知れぬ」

「なんの、待ちどおしいことがございましょうぞ。

お案じなく」

と、範綱はいった。

「したが、あまりにおそい――。こうしてはどうじゃ」

「はい」

「明日か、明後日、まいらば、十八公麿を伴うてござれ。

それまでには、官のこと、一切、御印可をいただいておくが」

「では、そう願いましょうか」

範綱が、答えて、立ちかけると、

「お父さま」

十八公麿が、言う。

「僧正さまの仰せじゃ。帰ろうぞ」

「いいえ」

かぶりを振って――

「いつまでも私は、待っていとうござります」

「わからぬ駄々をいうではない、さ……」

うながすと、十八公麿は、父が、朗詠する時の節をそのまま真似て、

あすありと

おもうこころの

あだざくら

夜半(よわ)にあらしの

ふかぬものかは…

愛らしい唇で、童歌のようにうたった。

「おお」

慈円僧正は、背を寒くしたように、その声に打たれた。

「よういった。……六条どの、待たねばなるまい、夜が明くるとも」

「はい」

ほろりと、範綱はいった。

うれしいのである。

この子の才智のひらめきが。

同時におそろしい。

こんなに光る珠を、なんで、平家の者が、眼をつけずにおくものか。

待とう。

――夜半にあらしのない限りもない。

介は、今の童歌の声に、

「ああ、あのお可愛らしいお姿も、今宵かぎりか」

と、洟(はな)をすすった。

夕闇にちる花は、白い虫のように、美しく、気味わるく、光のように明滅している。

と――そこへ、

「お使いの者、もどりました」

高松衛門が、あわただしく、告げてきた。

待ちかねて、

「どうあった?」

と、僧正がたずねると、使者は、次の間にぬかずいて、

「中務省の御印可、無事、下がりましてござります」

と、復命した。