真宗講座 末法時代の教と行 末法と衆生の行業 6月(前期)

親鸞聖人は、末法時代の仏教はただ

「浄土真宗」

のみだとされ、この仏教の念仏行を明らかにされます。

では、それはいったいどのような行業なのでしょうか。

仏教一般における念仏は、いうまでもなく衆生が仏果に至るために修する行法の一種です。

しかもこの念仏は、仏を念ずる行であるために、衆生が仏に直接かかわることの出来る唯一の行業であることから、仏教の中では最もすぐれた行法の一つだとされています。

よく知られているように、念仏には心と口とによる二種の念じ方があります。

一は、仏の相好を観念し、仏の功徳を憶念する念じ方です。

二は、仏の名号を口に称える念じ方です。

一般に、前者が観念念仏、後者が称名念仏と呼ばれています。

仏体および名号には無限の徳が有せられています。

念仏行が殊に優れているといわれるのは、観念及び称名を通して、行者が仏の無限の功徳と一体になることが期待されるからです。

念仏行は、このように仏の身相・名号の功徳をいただきつつ、行道を通して心を鎮め、清浄なる智慧の眼を開こうとするものです。

この念仏行の中にあって、浄土教一般の念仏は、阿弥陀仏を一心に念じ、名号を称えつつ彼の浄土に生まれたいと願ずる念仏です。

では、なぜこのような念仏思想が生じたのでしょうか。

どれほど念仏行が優れているとはいえ、行者が愚悪なる凡夫であれば、たとえ一心に仏を念じたとしても、この世では直ちに完全なる智慧の眼が開かれることなどあり得ません。

そこで、心に阿弥陀仏を念じ口に名号を称えて、阿弥陀仏の大悲に導かれて彼の浄土に往生し、そこで仏果を得ようとする念仏が求められるようになりました。

この場合、衆生が浄土への往生を求めるに際し、衆生の心の状態によって、自然と三種の願い方が生じることになります。

いずれの場合も、それぞれに一心に阿弥陀仏を念じ名号を称えて浄土への往生を願うのですが、第一は、自身が修する念仏行を通して、自分の心を清浄にし、その清らかな心を因として浄土に往生しようとする人びとです。

第二は、一心に念仏行を修しても雑念が消えず心に清浄性を見ない場合で、そこで意を転じて、一心に祈願し称名して、弥陀の大悲が自身に至り届くことを願い、その心を通して往生しようと願う人びとです。

そして第三は、一心の祈願さえできない人びとで、ただ阿弥陀仏の大悲を信じそのよろこびの中で念仏を相続して往生を願うことになります。

この第三者の姿を、行道を中心に見ると、自身の中に澄みきった心を得ようとしている第一の念仏の立場が、行として最も尊く優れているといえます。

次は第二の一心の祈願の中に、心の弱い者がせめてこれだけでも一心に行じたいと願う、心の美しさを見出すことが出来ます。

これに対して、第三は自らが努力して成そうとする意志が根本的に欠けているため、最も劣っているということになります。

『無量寿経』に、生因三願と呼ばれている願文があります。

これは、阿弥陀仏が十方世界の衆生を我が浄土に生ぜしめようとして誓われた願文のことで、生ぜしめる条件(生因)が三つの願文にわたって誓われているので、この三願を生因三願と呼んでいます。

願文は、第十八願・第十九願・第二十願がそれにあたります。

この内、第十九願には

菩提心を発し、諸の功徳を修し、心を至し発願して我が国に生れんと欲はん

と示されています。

「菩提心を発す」

というのは、まさしく菩薩の清浄真実なる心に通じる心でもってということですから、この願文は先の第一の衆生に対応する願だと言えます。

次に、第二十願には、

我が名号を聞きて、念を我が国に係けて諸の德本を植えて、心を至し廻向して我が国に生れんと欲はん

と説かれていますが、

「念を我が国に係けて」

は、ただひたすら祈願する心に通じるので、これは第二の衆生に対応する願だと言えます。

そして、第十八願には

心を至し信楽して我が国に生れんと欲ひて乃至十念せん

とあります。

これは、ただ信じたよろこびを通して、念仏を相続することが語られていますので、第三の衆生に対応しているということになります。