真宗講座 末法時代の教と行 末法と衆生の行業 6月(中期)

ところで、衆生の生因に関して、阿弥陀仏の誓いに三種の願を見るのは、阿弥陀仏の心に差別のあることを意味しているのではありません。

あくまでも阿弥陀仏の心はただ一つなのであって、何としても迷える一切の衆生を救い、我が浄土に生ぜしめたいという願いがあるのみです。

けれども、衆生の側に三種の心の状態があるのならば、それぞれの心の状態に応える願が仏の側でも開かれている必要があります。

たとえ、衆生の心の状態が、阿弥陀仏の願の真意に添わないものであったとしても、仏はその心を直ちに拒絶するのではなく、限りなく衆生を仏の方向へ引き寄せようとされます。

そこで、衆生の心の求めにしたがって、阿弥陀仏は衆生のために三つの誓願をたてられ、衆生を仏果へ導こうとされるのです。

この故に、いずれの願文も、文当面の意はどこまでも衆生の

「行道」が中心となっています。

つまり、衆生が一心に念仏行を修して浄土に往生すべく

「行道」が説かれているのです。

そして、このような立場を取る限り、浄土教の念仏もまた、衆生から仏への方向を取るといわなくてはなりません。

ところで、もし浄土教の念仏を修している衆生が、末法時代の

「愚悪者」であったとしたらどうでしょうか。

愚悪者というのは、根源的に愚かであり鈍であり邪であり悪なる者のことで、どれほど努力して行道に励んだとしても、究極的に清浄真実の心にはなりえません。

そのため

「愚鈍邪悪」と呼ばれます。

そうだとすれば、この者にとっての

「行道」とは何でしょうか。

明らかに言えることは、この者は行道そのものが過ちの中にあるため、この者の行く手には、仏果は絶対にあり得ないということです。

それは、行者が仏道としての意義を全く欠いているからです。

したがって、たとえそれが念仏行であったとしても結果は同じことで、邪悪なる凡愚においては、清浄なる心でその行を修することは出来ないのですから、必然の結果として念仏行そのものが往因行とはならないのです。

阿弥陀仏の本願には、衆生の意念に応じて、第十九・第二十・第十八の三つの願が開かれています。

そして、それぞれの願に衆生の往因行としての念仏が説かれているかのように見受けられます。

しかも、衆生の行道としてこの願意を窺う限り、第十九願の念仏行が最も尊く、第十八願の念仏は最も劣っているようにみなされていました。

ところが、末法の世においては、どの立場に立っても行道が行道としての用をなさないのですから、三願はともに私にとって同等の価値になってしまいます。

それは、第十九願の念仏も、第二十願の念仏も、さらには第十八願の念仏さえも、凡愚には行ずることの出来ない行であるために、このような生因願文は、末法の凡愚には全く関係のない教えとなってしまっているということです。

ここにおいて私たちは、今一度今の世は末法の時であるということを、極めて強く意識する必要があります。

末法の時代というのは、仏教の中にあって、もはや真似ごとほどの仏道を行ずる者もなく、まして証を得る者は誰一人としていないということです。

ただ仏の「教」のみしか残っていない時代なのです。

どのような行も修する者がいないということは、念仏の行者もまた例外ではないのであって、衆生が仏果に至るために修する行道としての念仏行は

「今」の時代では成立し得ないのです。

それは、衆生の側に仏道を真に修そうとする心が存在しないからで、真実の心をもって修されていない行為は、仏教的に見てどれほど類似の行であったとしても、仏道とは呼び得ないのです。

この仏道者の心を、そして仏教的行者の姿を、親鸞聖人は『正像末和讃』の中で次のように詠んでおられます。

浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし

この和讃は「愚禿悲歎述懐」と題されていますが、今ここで詠まれているのは、親鸞聖人ご自身の心であることはいうまでもありません。