小説 親鸞・大衆(だいしゅ)6月(2)

夜がすみ、朝がすみ――叡山の春秋はしずかだった。

宙のなかに無辺のすがたを浮かべている虚のようであった。

永い冬が過ぎる。

そしてやがて春ともなると、木の芽時のほの赤い樹々のあいだに、白くみえるのは、残雪ではない。

山ざくらの花である。

迦陵頻伽(かりょうびんが)の声ともきこえる山千禽(やまちどり)のチチとさえずる朝(あした)――根本中堂(こんぽんちゅうどう)のあたりから手をかざして、霞(かすみ)の底の京洛(みやこ)をながめると、そこには悠久(ゆうきゅう)とながれる加茂の一水が帯のように光っているだけで、人間の箇々(ここ)の消長や、文化の変転の何ものをも見ることはできなかったけれども、麓から登ってくるものの噂によると、どうして、この半年ほどの間に、世間のなかの変わりようは、絵にも口にも尽すことができないという――

まず、去年の飢饉(ききん)のために、盗賊がふえたことは大変なものであるとのことだ。

都といわず、田舎といわず野盜の類、海盗の輩が跳梁(ちょうりょう)して、政府をあるかなきがごとく、横行して、良民を泣かしているということである。

それも、平家の政庁が、あるにはあって、なんら善政をしこうともせず、中央は、中央で一時的の享楽にこの幾年を送り、地方は地方で、小吏が京洛の悪風をまねて、ただ良民をくるしめて、自己の悦楽を事としていたので、その余憤も駆られ、その隙にも乗じたのが、皆、矛(ほこ)をとって、賊に化(な)ったような傾きもある。

のみならず、昨年来、関東の方から起った源氏の革新的な軍勢は、日のたつにしたがってその勢いはあなどり難いものになっている。

伊豆の頼朝には、いわゆる、板東武者とよばれる郷族が、草を薙(な)いで、呼応してくるし、熊野の僧兵が呼応するし、これだけでも平家の狼狽はかなりみぐるしいものであったところへ、

「朝日将軍木曾義仲――」

と、みずから名乗って出た思いがけない破竹の強兵が、これも、夢想もしていなかった北国の空から、琵琶湖の湖北に迫って、兵鼓(へいこ)をうちたたき、声をうしおと揚げて、京洛に近づきつつあるという情報の頻々たるものがある。

「木曾山の小冠者ばらをして、都へ、近づけしむるな」

と、中央の政庁は、街道の諸大名へ向って、飛令(ひれい)をとばしたけれど、人の心はいつのまにか、この二、三年のあいだに、掌のひらをかえしたように変わってしまっているのであった。

誰あって、木曾軍に対して、

「われこそ」と、阻める一国さえないのであった。

あわてて都から、討伐に向った城資永(じょうのすけなが)は斃(たお)れ、新たに、精鋭を組織して、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は今、北国路へ発向(はっこう)している。

だが、これもどうか?

一方にまた、東海道方面へは、平知盛と清経の二将が、ものものしく押し下がったが、頼朝の軍に出遭うと、一たまりもなく、墨俣川にやぶられて、散走乱離(さんそうらんり)に、味方の統制すらつかない状態であるという沙汰も、政庁では秘密にしていたが、いつのまにか、うわさになって、

「――平家武者は、さすがに、花武者じゃ、露には咲くが、風には弱うと、よう散るよう散る」

などと、俗歌にまで、謡(うた)われて、市民たちにまで、小馬鹿にされ初めてキタ。

平家は、あせりだした。

迷い出した。

――で、彼らは叡山に使者をたてて、一山の衆僧に、源氏調伏の祈とう(きとう)をすべく命じた。

いつでも、敗者がすがる神仏の力でこの時勢をささえようとした。