小説 親鸞・大衆(だいしゅ)6月(10)

「どうしたのじゃ、七郎どの。――いや孤雲どの」

「まあ、聞いて下さい」

庄司七郎の孤雲は、岩に腰をおろした。

性善坊も、草むらへ坐った。

憮然(ぶぜん)として、孤雲は、宵の月をながめていた。

何か、回顧しているように。

やがて、そっと、瞼をふいて、

「――もう、何年前になるか、あの六条様のお館へ、間者(かんじゃ)に入って、捕まった年からのことです」

「うむ……」

「主人の成田兵衛から、不首尾のかどで、暇(いとま)を出されたので、家にある老母や妻子にはすぐ飢えが見舞います。

そのうちに、京の大火の晩に、足弱な老母は、煙にまかれて死ぬし、妻は病気になる、子は、流行病(はやりやまい)にかかるという始末。

とやこうと、悪いことつづきのうちに、この身一人、生きながらえて後の家族どもは、皆、あの世の者となってしまい申した」

「それは、御不運な……」

性善坊は、慰めようのない気がした。

あの、平家の郎党としての兵(つわもの)ぶりは、今の孤雲の影のどこにも見あたらない。

「一時は、死のうかと、思いましたが、戦ならば、死ねもするが、武家の飯をたべた人間が、飢えや、不運に負けて、路傍で死ぬのも、残念でなりません。

――そのうちに不幸は、私のみでなく、旧(もと)の主人、成田兵衛さまも、宇治川の戦で、何かまずいことがあってから、御一門の覚えもよからず、また、御子息の寿童丸様は、次の、源氏討伐の軍(いくさ)に、元服してから初陣したはいいが、人にそそのかされたか、臆病風にふかれたか、陣の中から、脱走して、お行方知れずになってしまいなされた」

「おお、あの、日野塾でも、範宴さまとご一緒に、机をならべていた若殿でざったな」

「そうです。……ために、父の兵衛様は、人に顔向けできないといって、門を閉じておられましたが、近ごろ、沙汰するところによると、宗盛公から、死を賜って、自害されたという話……」

「ああ、悲惨。――誰に会っても、そんな話ばかりが多い」

「ふりかえってみると、十幾歳のお年まで、お傳役(もりやく)として、寿童丸様のおそばに仕えていたこの私にも大きな責任がございます。

――自体、わがままいっぱいに、お育てしたのが、悪かったのです。

ひとり、寿童丸さまばかりでなく、平家の公達(きんだち)

のうちには、戦を怖がって、出陣の途中から、逃げてしまうような柔弱者が、かなり多いのではございますが、全く、私のお傳(もり)をいたした方には、多大な過ちがありました」

「しかし、そのもとばかりの罪ではない。ご両親の罪――また平家自身のつくった世間の罪――。何ごとも、時勢ですから」

「でも、どうかして、いちど、故主の霊をなぐさめるために、寿童丸さまの行方をさがして、意見もし、また、微力をつくして、一人前の人間におさせ申さなければ、済まないと思うのです」

「よういわれた。暇を出された故主のために、そこまで、義をわすれぬ心がけは、見あげたものだ。――して、範宴さまを、訪ねてきた御用は」

「人のうわさによると、戦ぎらいの公達は、よく、三井や、叡山や、根来などの、学僧のあだに、姿を変えて匿(かく)れこむよしです。御像にすがって、中堂の座主から、もしや寿童丸さまに似た者が、山らに登っているか、いないか、お調べねがいたいと思って、やって参ったのでございます」

話し終わって、孤雲は、首を垂れた。

足もともつかれているらしい、胃も渇いているらしかった。