『人が私を苦しめるのではない自らの思いで苦しむのだ』(中期)

私たちは、どのような時に

「苦しい」と感じるでしょうか。

少なくとも、物事が自分の思い通りに運んでいる時には、

「楽しい」とは思っても「苦しい」と感じることはありません。

「苦」というのは「自情に逼迫(ひっぱ)している状態」であると言われます。

「自情」というのは自分の感情ということ、

「逼迫」というのは事態がさしせまり、余裕がなくなること」

で、感覚的には胸苦しく圧迫されるような状態ということです。

このことから、

「苦」というのは自分の思いによって余裕をなくし胸苦しく感じている状態だといえます。

これに対して「楽しい」は「自情に適悦」といわれますから、自分の思いにちょうど合致している状態のことだとえます。

このことから、同じ状態であっても、それを自分がどのように感じるかによって、「苦」と「楽」のいずれかに分かれるということになります。

それは、世の中に「苦しい状態」というものがあるのではなく、一定の状態を苦しいと感じる人がいる一方、楽しいと感じる人がいるということです。

このことを踏まえて、源信僧都は『往生要集』の中で「苦といい楽といい、ともに流転を出でず」と述べておられます。

「流転」というのは、言い換えると「自分を見失う」ということです。

私たちは、苦しい状態にあっても愚痴を言うという形で自分を失っていますし、楽しい状態にあってもその楽しみの中に自分を忘れて空しく日々を過ごしてしまうということがあります。

そこに、苦しみといっても楽しみといっても、常に自分を忘れたあり方を出ていないのが、私たちの姿だといわれるのです。

日頃、私たちは無意識の内に「世の中は自分の思い通りになるはずだ」と思っています。

たとえそこまで思っていないとしても、少なくとも自分の思い通りになることを漠然と期待しています。

反対に、病気をしたり、事故に遭ったりすることなど、不都合なことは自分の身だけには「起きない」ことにしています。

しかし、現実はなかなか私の思うようにはなりません。

仏教では「因果の道理」を説きます。

物事の結果には必ず原因があることを明らかにする教えですが、これに基づけば「思い通りにならない」という結果には

「思い通りになるはずだ」と決めつけている私の身勝手な思いという原因があるといえます。

したがって、予期していたことと結果が異なってしまったとしても、その原因は私にあるのですが、私たちの目はいつも外を向いてものを見ています。

そのため、物事が上手くいかなかったことの原因を自分の中にではなく、自分の外に、具体的には他の人の上に求めようとしてしまいます。

これがいわゆる「責任転嫁」ということですが、物事が思った通りにならないと

「あの人のせいで…」とか「この人のせいで…」などと愚痴をこぼしてしまうものですが、実は他人が私を苦しめているのではなく、自らの思いによって苦しんでいるだけなのです。

世の中には、同じ環境であっても、そこに意義を見出して生きがいを感じて生きている人もいれば、愚痴ばかりをこぼして世の中を呪っている人もいたりします。

私たちの周囲には、苦しい世界とか楽しい世界が色分けされて存在している訳ではありません。

ただ、与えられている状況を、自分の思いよって楽しいものとか苦しいものと受けとめている事実があるだけなのです。

ところが、このような自分のあり方に、自ら気付くことはなかなか難しいものです。

なぜなら、苦楽ともにそれによって自分を見失っていくのがこの私たちの迷いの世界だからです。

一方、苦といい楽といい、そのいずれをもあるがままに受け止めていける世界が、阿弥陀仏の浄土です。

私たちは、仏法に耳を傾けることによって初めて、自らの思いによって苦しむことなく、苦楽いずれにあっても、そのことによって自分というものを受け止め、自分というものを本当に生きていける私になれるのだと思います。