親鸞・登岳篇 鳴らぬ鐘 7月(2)

短檠(たんけい)の丁字を剪(き)って、範宴が、ふたたび、机の上の白氏文集へ眼を曝(さら)しはじめると、

「さ……水を汲んできた。足を洗いなさい」

と、入口の方で、また、物音と人の気配がした。

やはり、狐(こ)狸(り)ではなかった。

範宴は、すこし、燭の位置を移して、うしろへ身をのばしながら、

「性善坊か」

すると、はっきり、

「ただ今帰りました」

彼の返辞であった。

すぐ上がってきて、

「範宴さま。ただいま、戻って来る途中で、ふしぎな人に会いました。後ろにつれて参りましたから、お会いして下さいまし」

といって、

「孤雲どの。こちらへ」

と、呼んだ。

怖る怖る、庄司七郎の孤雲は、そこへ来て、うつむきがちに坐った。

範宴は、小首をかしげて、

「はての?」

「おわかりになりませんか」

「知らないお方だ」

孤雲は、その時、しずからに顔を上げて―――

「ああ、よう御成人なさいましたな」

「あ。……七郎か」

「やはり覚えていらっしゃった」

と、孤雲は、ぼうぼうとした髭(ひげ)の中で、うれしげに、微笑した。

「忘れてなろうか、糺の原で、あやういところを、救うてくれた庄司七郎……。あの時、そなたは、なぜ逃げたのか」

「その仔細は――」

と、性善坊がひき取って、

「途々(みちみち)、聞いてきたところでございまする。私から、代わって、お話いたしましょう」

範宴は、眼をつぶらにして、聞いていた。

そして、

「ほう……、では、日野の学舎(まなびや)でこの身と共に机をならべていた寿童丸は、いまでは、行方が知れぬのか」

「里のうわさによると、この叡山に、知人があるゆえ、戦がやむまでその辺りに、隠れているのではないかと申すのだそうで」

「座主に、お願い申して、よう尋ねてあげよう」

「ありがどうぞんじます」

「だが――」

と、性善坊は側から――

「この叡山には、三千の学僧と、なお、僧籍のない荒法師やら堂衆やら、世間を逃げてきた者たちが、随分と、一時の方便で、身を変えているものも多いゆえ、容易には、知れまいと思うが……」

「ま……。いつまでも、おるがよい」

と範宴はなぐさめた。

孤雲は、ともすると、燭に面(おもて)を伏せてしまった。

――もう五、六年も前になるが寿童丸の腕白から、まだ、十八公麿といったころのこの君が、土で作っていた仏像を足蹴にかけたことだの、日野の館へ石を投げこんで罵りちらしたことだの……過去を思い出すと、背なかに、冷たい汗がながれる。

だが、範宴も、性善坊も、そんなことは、さらりと、忘れたように、

「孤雲どの、空腹(すきばら)ではないか」

と、いたわる。

「はい……実は……」

と、ありのままに答えると、

「では、粥(かゆ)でも、煮てあげい」

範宴がいう。

やはり菊の根には菊がさき、蓬(よもぎ)の根には蓬しか出ぬと、孤雲の七郎は、旧主の子と、範宴とを心のうちで較べて、さびしい気がした。