親鸞・去来篇 9月(3)

「いつ、ご法体(ほったい)になられたのか」

範宴は、涙で、養父のすがたがみえなくなるのだった。

「……面影もない」

と昔の姿とひき比べて、十年の養父の苦労を思いやった。

性善房は、たまりかねたように、そこの門を押して入ろうとした。

「これ、訪れてはならぬ」

範宴は叱った。

そして、心づよく、垣のそばを離れて、歩きだした。

「お会なされませ、お師様、そのお姿を一目でも、見せておあげなされませ」

「…………」

範宴は、首を横に振りながら、後も見ずに足を早めた。

すると、鍛冶ケ池のそばに二人の若い男女が、親しげに、顔を寄せ合っていたが、範宴の跫音(あしおと)に驚いて、

「あら」と、女が先に離れた。

この辺の、刀鍛冶の娘でもあろうか、野趣があって、そして美しい小娘だった。

男も、まだ十七、八歳の小冠者(こかんじゃ)だった。

秘密のさざめ語(ごと)を、人に聞かれたかと、恥じるように、顔を赧(あか)らめて振りかえった。

「おや……?……」

範宴は、その面ざしを見て、立ちすくんだ。

若者も、びくっと、眼をすえた。

幼い時のうろ覚えだし、十年も見ないので、明確に、誰ということも思いだせないのであったが、骨肉の血液が互いに心で呼び合った。

ややしばらく、じっと見ているうちに、どっちからともなく、

「朝麿ではないか」

「兄上か」

寄ったかと思うと、ふたつの影が、一つもののように、抱きあって、朝麿は範宴の胸に、顔を押しあてて泣いていた。

「――会いとうございました。毎日、兄君の植髪の御像をながめてばかりおりました」

「大きゅうなられたのう」

「兄上も」

「このとおり、健やかじゃ。――して、お養父君も、その後は、お達者か」

「まだ、お会遊ばさないのでございますか」

「たった今、垣の外から、お姿は拝んできたが」

「では、案内いたしましょう。養父も、びっくりするでしょう」

「いや、こんどは、お目にかかるまい」

「なぜですか」

「自然に、お目にかかる折もあろう。ご孝養をたのむぞ」

すげなく、行きすぎると、

「兄上――。どうして養父上に、会わないのですか」

朝麿は、恨むように、兄の手へ縋(すが)った。

女は、池のふちから、じっとそれを見ていた。

処(むす)女心(めごころ)は、自分への男の愛を、ふいに、他人へ奪(と)られたような憂いをもって、見ているのだった。

「…………」

性善房は、すこし、傍(わき)へ避けて、兄弟の姿から眼を背けながら、ぽろぽろと、頬をながれるものを、忙しげに、手の甲でこすっていたが、そのうちに、範宴は、何を思ったか、不意に、弟の手を払って、後も見ずに、走ってしまった。