親鸞・去来篇 川霧 9月(5)

ふと、振りかえって、女のうしろ姿を見送りながら、

「もし……」性善房は、範宴の袂(たもと)を、そっと引いた。

「――あの女房、泣いているではありませんか」

「町の者であろう」

「欄干へ寄って、考えこんでいます。おかしな女子(おなご)だ」

「見るな、人に、泣き顔を見られるのは憂(う)いものじゃ」

「参りましょう」

二人は、そういって、歩みかけたが、やはり気にかかっていた。

五、六歩ほど運んでから再び後ろを振り向いたが、その僅かな間に、女のすがたはもう見えなかった。

「や、や?」

性善房は、笈(おい)を下ろして、女のいたあたりへ駈けて行った。

そして、欄干から、のめり込むように川底をのぞき下ろして、

「お師様、身投げですっ」と手を振った。

範宴は、驚いた。

そして自分の迂闊(うかつ)を悔いながら、

「どこへ」と側へ走った。

性善房は、暗い川面を指さして、

「あれ――、あそこに」といった。

水は異様な渦を描いていた。

女の帯であろう。

黒い波紋のなかに、浮いては、沈んで見える。

「あっ、あぶないっ……」

性善房が驚いたのは、それよりも、側にいた範宴が、橋の欄干に足をかけて、一丈の余もあるそこから、跳び込もうとしているからであった。

抱きとめて、

「滅相もないっ」と、叫んだ。

「――私が救います。お大事なお体に、もしものことがあったら」

と、彼は手ばやく、法衣を解きかけた。

すると、河原の方で、

「おウい……」

と、男の声がした。

二、三人の影が呼び合って、駆けつけてきたのである。

川狩をしていた漁夫(りょうし)であろうか、一人はもうざぶざぶと水音を立てている。

川瀬は早いが、幸いに浅い淵に近かったので苦もなく救われたのであろう、間もなく、藻(も)のようになった女の体をかかえて岸へ上がってきた。

「ありがとう」

範宴は、礼をいいながら、男たちの側へ寄って行った。

女は、まだ気を失っていないとみえて、おいおいと泣きぬいていた。

両手を顔にあてながら身を揺すぶって泣くのである。

「どう召された」

性善房が、やさしく、女の肩に手をやってさし覗くと、女は不意に、

「知らないっ、知らないっ」

その手を振り払って、まっしぐらに、宇治の橋を、町の方へ、駈けだして行くのであった。

「あっ、また飛びこむぞ」

男たちは、そういったが、もう追おうともしないで、舌打ちをして見送っていた。