『「おかげさまで」と言える人生に孤独はない』(後期)

「お蔭様」

「有り難う」

「勿体ない」

「ご馳走様」

「頂きます」

などの美しい言葉は、昔から私たちのご先祖の方が、大切にしてきた仏教的な言葉であり、今後とも、受け継いでいきたい日本語です。

その中、

「お蔭様」(おかげさま)は、感謝の心を表わす日常語です。

本来、「お陰」とは、神仏の助けや加護のことをさしていますが、そこから派生して、人から受ける恩恵や力添えをいうようになりました。

また、「お陰様」の文字からわかりますように、何かとうぬぼれが強く、自分の力で生きていると錯覚している私に、私の気づかないところで(陰の見えないところで)、多くの方々に支えられています。

その「ご恩」に、後々、気づかされた時に、わざわざ「お」と「様」を前後に付けて、「お陰様」と報恩・感謝の気持ちを言葉で表現させて頂くのです。

ですから、「ご恩」と「お陰様」は同じような意味であり、私がつくり与えるものではなくて、一方的に与えられる恩恵をさしています。

さて、私は鹿児島県日置市伊集院町の寺院に住んで十数年になりますが、朝夕の決まった時間に、ゴオーン・ゴオーンと梵鐘が聞こえてきます。

そこで、あの梵鐘はどこのお寺さんがついているのか気になってきました。

町内で梵鐘のある寺院は限られています。

ある日、梵鐘の鳴る方向に車を走らせましたが、どうしてもわかりません。

そうこうするうちに、いろんな情報提供を頂き、ようやくわかりました。

それはなんと、近くの高台にある、鹿児島城西高校・鹿児島育英館高校の敷地内にある梵鐘からでした。

驚きました。

梵鐘は寺院にあるものと思い込んでいました。

そこで早速、高校に車を走らせました。

高台に立派な鐘楼堂があり、周囲は樹木に覆われており、外からは全く見えませんでした。

その入口に

「報恩の鐘・縁起」

という説明板が設置されていましたので、以下、ご紹介します。

この報恩の鐘は生徒が寮生活を通して人間らしい心を涵養(かんよう)し、人格の淘(とう)治(ち)をはかり、今日に生きる感謝と喜びにひたるために設置されたものであります。

鐘は朝な夕なの集いや機会あるごとに、生徒たちの手によってつきつづけられます。

一度に三回つく鐘は、後藤大治学園理事長の

「感謝の心を育てる」

教育理念に基づいて

一つ目が、今日まで育てていただいた祖先や父母そして家庭に感謝の心をこめて

二つ目が、自分をこれまで支えていただいた恩師や友人たち、そして社会への感謝の気

持ちをこめて

三つめが、自分の決意と努力がこめられています

以上ですが、後日、学校の担当の先生にお伺いしますと、鹿児島市内より校舎が移転して以来、30数年、朝夕の集いの時、寮生が順番で鐘をついているとのこと、またその間、他の寮生は故郷の方向に向いて黙祷をしているとのことでした。

寮生の方は、故郷を離れていることからくる寂しさもあるでしょうが、鐘の音に励まされることも多いと思います。

「おかげさま」といえる人生には孤独はありません。

しかし、私は一人だ、誰も私の気持ちはわかってくれないと孤独感に陥っている時は、いろんな音や情景に身をゆだねてみてはいかがでしょうか。

そうした意味からも、懐かしい文部省唱歌

「夕焼け小焼け」

の歌詞はいいですね。

「夕焼け小焼けで日が暮れて

山のお寺の鐘がなる

おててつないでみなかえろう

からすといっしょにかえりましょ

子供がかえったあとからは

まるい大きなお月さま

小鳥が夢を見るころは

空にはきらきら金の星」

私たちは、生かされています。

いつも支えられています。

「おかげさま」の世界に生かされています。