迷子の記憶

休日に家族で買い物に出かけたときのことでした。

私が商品を選んでいると、娘が私から手を離して、一人で行動しはじめました。

普段であれば

「手を離したらダメだよ!」

と声をかけるところなのですが、ふと娘がどんな行動をするのか気になり、見失わないよう少し距離をおいて追いかけてみることにしました。

当初は、自分の気になる所を見て回ったりしていたのですが、突然立ち止り、クルリと周囲を見渡したかと思うと、私がいた方向とは真逆の方向へと走り出して行きました。

私はびっくりして、慌てて娘の名前を呼ぶと、泣きそうな顔をして抱きついてきました。

娘は、迷子になりかけていたのです。

その瞬間、自分が小さい頃、迷子になったときの記憶がよみがえってきました。

私は小学生の時、電車通学をしていました。

学校で遠足があったのですが、そのときの解散場所は学校ではなく、遠足に行った現地でした。

そこは、私にとって初めての場所であり、まだ電車通学に慣れていない時期でもあったため、帰る際に乗り間違えて、家とは反対方向の電車に乗ってしまいました。

途中で気付いたもののどこで降りていいのか分からず、つい適当な駅で降りてしまいました。

ところが、どうすれば家に帰れるのか分からないため、一人途方に暮れていました。

その時、幸い通りすがりのご婦人が声をかけ事情を知り、私の家へ電話をかけてくださいました。

両親が迎えにきてくれるまでは、悲しくて寂しくて、どうしようもなく辛かったのですが、両親の姿を目にした時は本当に嬉しくて、心が安らぎ、なんとも言えない気持ちになったことを思い出します。

最近は物騒な事件も増えているためか、

「怪しい人に間違われたくない」

との思いから、見知らぬ子どもに声をかけることをためらう人が多いかもしれません。

しかし、子どもの不安な様子や悲しそうな表情というのは、気付いてあげることができるはずです。

はたして、迷子になるのは子どもだけなのでしょうか・・・。

悲しい事件やニュースを見るたびに、迷子になっているのは子どもだけでなく、大人も迷子になっているような気がします。

いのちが、いのちのあり方を見失う。

人生の行く末を見失っている。

だからこそ、何を拠りどころにいのちをいただいて生きていくのかが問われているのではないでしょうか。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。