『私が私でよかったと思える私になりたい』(中期)

人は、意識の度合いは違っていても、誰もが心の中で「(人として生まれたからには)幸福になりたい」と思って生きています。

そのような意味で、人類の歴史とは、

「幸福を願い、それを現実のものとするための方法を考え行為を繰り返し、その考えと行為が次から次へと受け継がれ無限に広がってきたものだ」

と言えます。

そして、このような幸福の求めによる成果を、私たちは科学の進歩とか人類の発展という言葉で呼んでいるのですが、いつの時代にあっても、常に幸福を求める無数の人びとがいたからこそ、今日までの人類の進歩や発展というものが続いてきたのかもしれません。

ところで、一般に私たちが幸福を口にする時、未来に幸福の実現を夢見る一方、未来に夢見た幸福な自分の姿から見て、そうではない現在の自分を歎いたり悲しんだりしているということが少なからずあります。

けれども、本当の幸福というものは未来に夢見られるのではなく、この現在において感じられてこそ意味があるはずです。

考えてみますと、未来に幸福を求めているということは、今ここにこうして生きている私は、未来に幸福を求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということにほかなりません。

昔から「隣の芝生は青い」とか「隣の花は赤い」ということを言います。

「他人のものは自分のものよりもよく見える」ということの例えですが、これは私たちが、いつでも他の何かと比べることでしか、自分の幸福を考えることができないということを如実に物語っている言葉だと言えます。

したがって、幸福はいつでも他人の上にしかなく、しかも私においては未来にあって現在にはない、そういう事実の中で私たちは生きているということです。

そうすると、必然的に現在にあるものはいつでも不平不満であり、その満ち足りない気持ちで他人を見ては他人の上に幸福を感じ、未来に望んでいる幸福から現在を見ては、希望通りでない自分を歎き悲しむことになってしまう訳です。

とはいえ、それでは常に自分は不幸の只中にあってやりきれない思いに沈むばかり…ということになってしまうので、時折自分よりも不幸そうな人と比べて、「自分はまあ幸福な方ではないか」と、自身の不平不満を解消してバランスをとっているというのが、私たちの日々の在り方です。

ところが、そのようにして不平不満を自分で無理に納得させている限り、本当に腹の底から幸福だと実感することはできないのではないでしょうか。

なぜなら、自分の生きる環境は同じであるのに、自分より幸福そうな人を見ては不幸だと歎き、自分より不幸そうな人は見ては幸福だと喜ぶといった在り方は、自身を誤魔化しているだけに過ぎないからです。

私たちは、誰もが「幸福になりたい」と願っているのに、人生の途上においては、好むと好まざるとに関わらず、縁に触れ折りに触れ苦しみや悲しみが何度も襲ってきます。

そうすると、どれほど「幸福になりたい」と願っても、本当の意味での幸福を得ることができなければ、最後は「空しかった」という一言で、人生の全てが無駄なものとして砕け散ってしまわざるを得ません。

では、本当の幸福とはいったいどのようなものなのでしょうか。

思うに、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみや悲しみが本当の意味で空しくない、苦しみの中に無駄ではなかったといえるものが感じら、悲しみの中にも人生の意味が見出されない限り、人間の一生というものは、どれほど長く生きたとしても「生きた」という深い頷きを持ち得ないのではないでしょうか。

そうすると、本当の幸福とは

「自分が生きたという事実が決して空しく終わらない」、

言い換えると

「現実を安心して生きることのできる道が明らかになること」

だと言えます。

私たちは、いつも他人との比較の中で幸福を考えているのですが、振り返ってみますと、私が自身にどれほど絶望し、仮に「死んでしまいたい」とまでと思っても、決して私を見捨てない事実があります。

それは何かというと、私の「いのち」そのものです。

私は、自分のこの「いのち」を自分で作ったという覚えもありませんし、頼んだ覚えもないのですが、私の「いのち」は今日ここまでこうして私を生かし続けてくれています。

そうすると、誰でもない、この私が自身の「いのち」に安んじるということがなければ、つまり私が私に生まれ、この人生を私が生きて行くということに誇りを持つということがなければ、やはり最後は「空しかった」という一言に全てが収斂され、死と共に砕け散っていくことにならざるを得ません。

親鸞聖人は、ご和讃(高僧和讃)の中で

罪障功徳の体となるこおりとみずのごとくにて

こおりおおきにみずおおしさわりおおきに徳おおし

と、讃えておられます。

仏教では「罪」とは煩悩によって創り出される悪の行為、「障り」とは覚りの生涯になるという意味で、このことから「罪障」とは「功徳」と相反するものだといえます。

ところが、親鸞聖人は、そのような「罪障」が、功徳のもとであるのだといわれます。

更に、その「罪障」が多ければ多いほど、それが転じたときに得られる功徳が多くなる、つまり「罪障」があるからこそ、私たちは「功徳」を得ることができるのだと述べておられます。

私たちは、生きて行く中で様々な困難に出遭います。

そして、思い通りにならない現実に直面して苦しんだり悩んだり、時には過ちを犯したり、失敗したりすることさえあったりします。

けれども、私の人生の主人公は私以外、他には誰もいないのであり、たとえうまくいってもいかなくても、私がこの人生の全てを引き受けて行くのだということに深い頷きをもつと、かつて運命だと諦めようとした、あるいは不幸だったと切り捨てようとしたことなど、まさに「罪障」とでもいうべきことが、単に「無駄なこと」に終わるのではなく、まるで大きな氷が溶ければたくさんの水が流れだして全てを潤していくように、私の人生の全体を輝かせてくれることになるのだと言われるのです。

確かに、辛いこと、悲しいこと、苦しいことなど、できればない方がいいに決まっています。

けれども、一方で「人間には悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われます。

そういった事柄をくぐって、再び勇気を持って立ちあがるとき、それまで当たり前と思っていたことが実はそうではなかった、気付かなかったこと、見落としていたことに気が付いたり、眼を開いたりすることができたりするものです。

このような意味で本当の幸福とは、決して快楽でもなければ一時の感動でもなく、現在の自分に満足する「自己充足の感情」とでも称すべきものであり、言い換えると「私が私で良かったと思える私であること」への深い頷きとでも言うことのできるように思われます。