真宗講座親鸞聖人に見る「往相と還相」

如来二種回向の本質とその功徳(11月後期)

 まず往相廻向の「行」とは何かが問題になるのですが、これについては、「行巻」冒頭の文、

 「謹んで浄土真宗を案ずるに、大行有り、大信有り。大行とは、則ち無碍光如来の名を称するなり」

 が、そのすべて明白に語っています。

 「南無阿弥陀仏」と称えられている、その称名念仏が往相廻向の行だといわれるのです。

 そして、この行が阿弥陀仏から廻向されている行であるが故に、この行には

 「即是諸の善法を摂し諸の徳本を具せり。極促円満す。真如一実の功徳宝海なり」

 という功徳が有せられることになります。

 このことは『文類聚鈔』でも同じで

 「行と言ふは則ち利他円満の大行なり。…然るに本願力の廻向に二種の相有り。この行は遍く一切の行を摂し、極促円満す」

 と述べられます。

 ここでこの行の功徳が「利他円満の大行」とされていますが、それは「南無阿弥陀仏」こそ迷える一切の衆生(他)を完全に利益する、阿弥陀仏の大行だとういう意味に理解されます。

 なお、行と信について

 「往相廻向の行信に就いて行に則ち一念有り。また信に一念有り」

 という言葉が見られます。

 行と信にそれぞれ「一念」があるとされるのですが、では行の一念とは何でしょうか。

 「行の一念と言ふは、謂く称名の遍数に就いて選択易行の至徳を顕開す」

 といわれるように、たとえどのような称名であっても、一切の称名の中の一声の称名が、まさしく如来によって選択され廻向された、易行の至極なのです。

 したがって、この一声の念仏者は、よく速やかに阿弥陀仏の浄土に往生することができるのです。

 往相廻向の「信」については、「信巻」冒頭で

 「謹んで往相廻向の廻向を案ずるに、大信有り。大信心は則ち是れ長生不死之神方、欣浄厭穢之妙術、選択廻向之直心、利他深広之信楽、金剛不壊之真心、易往無人之浄信、心光摂護之一心、希有最勝之大信、世間難信之捷径、証大涅槃之真因、極促円融之白道、真如一実之信海」

 と語られ、『文類聚鈔』では

 「浄信と言ふは則ち利他深広の信心なり」

 「誠に是除疑獲徳之神方、極促円融之真詮、長生不死之妙術、威徳広大之浄信」

 と示されます。

 ここに「利他深広の信心」という言葉が見られますが、この信心こそ、阿弥陀仏が迷える衆生を救うために成就された、無限に輝く清浄で広大な願心だと言えます。

 このような功徳をもった大信心であるが故に、この信心が凡夫を大涅槃に至らしめる真因として、念仏往生の願より廻向されているのです。

 こうして、この信楽の一念が

 「斯れ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」

 と述べられるのです。

 では往相還相の「証」とは何でしょうか。

 「証巻」の冒頭の文は、

 「謹んで真実証を顕さば、即利他円満之妙位、無上涅槃之証果」

 とあり、『文類聚鈔』では、

 「証と言ふは則ち利他円満之妙果なり」

 となっています。

 すでに示したように、この証果の願が、「往相証果之願」と名づけられていることから、この「証」も往相廻向の証であることはいうまでもありません。

 阿弥陀仏の廻向による証であるが故に、この証を得たものは、「清浄真実至極畢竟無生」の極果に至りうるのです。

 ところで「証巻」に

 「往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」

 という文が見られます。

 このことは、この証果は、衆生が阿弥陀仏から廻向される「行」と「信」を獲得することによって、はじめて成立するということを示しているといえます。

 では還相廻向とは、どのような証果なのでしょうか。

 還相廻向に関しては「二に還相廻向と言ふは、則ち利他教化地の益なり」と、『教行信証』『文類聚鈔』ともにほぼ同一の文となっていて、この廻向は、第二十二願より出ずると示されます。

 ただし、その廻向の内容に関しては、第二十二願がそのまま直ちに引用されるのではなく、『教行信証』では『浄土論』『浄土論註』の文を通して、また『文類聚鈔』では願成就の文が引用されることによって、還相廻向が語られることになります(『二種廻向文』は『教行信証』と同じ)。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。

 ここで親鸞聖人の一つの重要な意図が明らかになります。

 すでに述べた

 「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」

 の文によっても明らかに知られるように、往相と還相の功徳の一切が、阿弥陀仏の本願によって成就され、それが衆生に廻向されるという、親鸞聖人によって解明されたこの真理は、ほんの少しも動かすことができないことはいうまでもありません。

 行も信も証も、そのすべてが阿弥陀仏の本願に成就されているのです。

 けれとも、それを「廻向」という一点で押さえるならば、それはまさしく迷える衆生に廻向されているのですから、衆生の心を抜きにしては、この往還の二廻向は語られていません。

 衆生と切り離されたところで、阿弥陀仏の往還の二廻向が成就されているのではなくて、常に衆生の心に廻向されている、その事態においてのみ、この二廻向は意義を持つのだといえます。