『ずいぶん回り道をしてきたそれもまたいい』(後期)

幼い頃、学校から帰る途中で、回り道をした経験のある人は多いのではないでしょうか。

路地に入って虫を見つけたり、子猫を追いかけたり、興味をそそるガラクタを見つけたり。

田舎育ちの人であれば、藪にまぎれ込んだり、小川で遊んだり、探検ごっこをした人もいるでしょう。

子どもにとって、学校からの帰り道は好奇心そそる宝の道で、しかも正規のルートではない回り道にはには様々な出会いがあり、驚きがあり、多くの学びや経験がありました。

しかし、人が成長するにしたがって回り道はあまり良い意味では使われなくなります。

大人になるにつれ、定めた目標に向かって、横道にそれることなく最短距離で到達することが良しとされます。

しかも本人の思いはさておき周囲から見て、それが最短で効率的に早いほど素晴らしいことと評価されます。

戦後の日本は、あらゆる分野で便利、簡単、スピードを徹底的に追求してきました。

そんな社会の中で育ってきた私たちは、人の人生までも、目標に向かって直線コースで最短にたどり着くことこそが、立派ですばらしい人生と思いがちです。

ただ、あらためて自分自身の人生をふり返ってみると、自らの目標に直線コースで最短にたどり着いた人はごく僅かかもしれません。

いえ、最初の目標から大きく逸れてしまった人、それどころか当初の目標とまったく変わってしまった人も少なくはありません。

仏教の開祖であるお釈迦さまが、人の一生は

「一切のものは皆苦しみである」

と諭されました。

「苦」という文字の意味は苦しいということでなく、

「自らの思い通りにならないこと」

ということですが、まさしく自ら計画した人生通りにならなかった人、順風満帆に歩んで来ることができなかった人の方が多いのかもしれません。

自ら立てた目標に向かって直線コースで最短に効率よくたどり着くことはすばらしいことでしょう。

しかし、たとえ回り道といわれるような人生でも、よくよくふり返ってみると、多くの人との出会いの中で、様々な出来事を経験する中で、さらには逆境と言われるような経験を通して、人が生きる上で忘れてはならない大切なものに気づかされたり、どのような困難なことがあっても挫けることのない心に目覚めることができたということもあるではないでしょうか。

回り道、一つ一つ寄り道には大きな意味があるということです。

人生はよく山登りに喩えられますが、決められた登山ルート、あるいはロープウェーに乗って、表面だけの美しい風景を見ながら登るのと、自分で地図を見ながら、時には危険な目にも遭いながら、苦労して登るのとでは自ずと眺める風景も変わってきます。

物作りでも同様のことが言えるかもしれません。

あらかじめ部品も設計図も揃えられた物を組み立てるのと、自分で材料から探して試行錯誤を重ねて組み立てていくのでは、時間もかかり苦労はするのですが、その達成感は比べものにならないでしょう。

人生観とは、人生の価値、目的、態度についての考え方のことですが、

「観」という文字には、見わたす景色、外に表してみせる姿という意味があり、まさしくそれは多くの学びと経験の中で培われるものでありましょう。

人生には豊かさが必要です。

人間には奥深さも必要です。

そのためには、回り道も決して悪いことではありません。

回り道したようだけど、とてもすばらしい出会いや経験をさせていただた。

おかげさまの人生だった。

しみじみと、そう言える日々を送れたならどんなに幸せなことでしょう。