そこで今一度、往還二廻向の本質を窺ってみることにします。
往相廻向の行とは何でしょうか。
「無碍光如来の名を称するなり」
がそのすべてを語っているといえます。
衆生が一声
「南無阿弥陀仏」
を称える。
そこに往相廻向の行が出現しているのです。
往相廻向の信においては、信楽の一念にその出現を見ることができます。
「信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」
の文がそれを語っているのですが、阿弥陀仏の信楽が私の心に開発された瞬間、それはまさに私の全体が慶心で包まれる時ですが、そこに私における往相廻向の信の成就があるといえます。
そうすると、往相廻向の証とは
「往相廻向の心行を獲れば、即の時に、大乗正定聚の数に入る」
ということになります。
まさにこの世の衆生が、往相廻向の心行を得、正定聚に住することが、往相廻向の証果なのです。
では、還相廻向の証果とは何でしょうか。
還相の廻向の功徳もまた、阿弥陀仏の第二十二願に成就されているところです。
したがって、阿弥陀仏が廻向を首として大悲心を成就された、その大悲心が還相廻向のすべてであることはいうまでもありません。
しかし、ここでもまたその大悲心が衆生と関わらない限り、この廻向もまた意味をなさなくなるといわなくてはなりません。
阿弥陀仏の還相廻向の成就が、還相の菩薩の上で躍動するが故に、この廻向が無限の意義を有するのです。
そして、この還相の菩薩の行道を如実に語っているのが、『浄土論』『浄土論註』の思想であり、また第二十二願の成就文です。
ここに、親鸞聖人が還相廻向の証果を論じられる際、第二十二願を直接引用されなかった理由が見られます。
このように見れば、往相の廻向とは、その功徳の内実は阿弥陀仏の願心にありながら、その廻向の具体的な躍動の相は、往生する正定聚の機の相ということになるのであり、この念仏の行者のこの世における仏道に、往相の廻向の真実が輝いていることになります。
そうすると、還相の廻向もまた同様に考えられます。
決して、阿弥陀仏が往相したり還相したりするのではありません。
往相と還相は、必ず衆生の上で語られるべきであり、正定聚の機の往生の相が往相なのであり、この菩薩が浄土に往生して、直ちにこの世に還来する、その教化地の菩薩の相が還相だとみなければならないのです。
では、還相の菩薩のこの世における菩薩道とは、どのような仏道になるのでしょうか。
往相の仏道と共に、この点が以下の中心課題になります。
ここで最後に、往相廻向と還相廻向の関係を窺うことにします。
この二種の廻向の関係は
「和讃」
に最も明瞭にあらわれているように思われます。
『正像末和讃』に
「如来二種の廻向をふかく信ずる」
「往相還相の廻向にまうあはぬ」
「如来二種の廻向の恩徳まこと」
「如来二種の廻向を十方にひとしく」
「如来二種の廻向にすすめいれしめ」
と、
「如来二種の廻向」
という言葉が繰り返し出てきます。
私たちは、如来の二種の廻向に出遇うことによって、初めて無上涅槃に至ることができます。
それ故に
「諸仏・善知識はただひたすら私たちに、この如来の二種の廻向をすすめておられます。
したがって、如来の二種の廻向を信じる人はすべて等正覚に至ります。
だからこそ、この他力の信を得た人は、かならず如来の二種の廻向を十方の人々にひろめるべきです」
和讃の大意は、おおよそこのように理解することができます。
このように見れば、
「二種の廻向」
は、阿弥陀仏が一切の衆生を、必ず仏果に至らしめるために成就された一つの無限の大悲心の二種のはたらきということになり、この二種の廻向は、常に同時的に存在し、衆生を摂取するために、当時に衆生の心に来っていると見なければならなくなります。
逆に言えば、もしこの二種の廻向がなければ、衆生は無上涅槃には至り得ません。
したがって、往相還相という二種の廻向が切り離されては意味をなさないのであって、阿弥陀仏の大悲心に、往相還相という二種の廻向が共に具わっているからこそ、その信楽を獲得する時、その瞬間に等正覚の証果に至ることになるのです。
では、この二種の廻向はどのようにして衆生の心に来るのでしょうか。