親鸞・去来篇 12月(9)

「迷える者と、迷える者とが、ここで、ゆくりなくお目にかかるというのも、太子のおひきあわせというものでしょう」

聖覚法印は、語りやまないで、語りゆくほど、ことばに熱をおびてきた。

「いったい、今の叡山の人々が、何を信念に安住していられるのか、私にはふしぎでならない。――僧正の位階とか、金襴(きんらん)のほこりとかなら、むしろ、もっと赤裸な俗人になって、金でも、栄誉でも、気がねなく争ったがよいし、学問を競うなら、学者で立つがよいし、職業としてなら、他人に、五戒だの精進堅固などを強いるにも及ぶまい、また、強いる権能もないわけではありませんか」

範宴は、黙然とうなずいた。

「あなたは、どう思う。おもてには、静浄を装って、救世(ぐせ)を口にしながら、山を下りれば、俗人以上に、酒色をぬすみ、事があれば、太刀薙刀をふるって、暴力で仏法の権威を認めさせようとする。

――平安期のころ、仏徒の腐敗をなげいて、伝教大師が、叡山をひらき、あまねく日本の仏界を照らした光は、もう油がきれてしまったのでしょう、現状の叡山は、もはや、真摯な者にとっては、立命の地でもなし、安住の域でもありません。

……で、私は、迷って出たのです。

しかし実社会に接して、なまなましい現世の人たちの苦悩を見、逸楽を見、流々転相(るるてんそう)のあわただしさをあまりに見てしまうと、私のような智の浅いものには、魚に河が見えないように、よけいに昏迷してしまうばかりで、ほとんど、何ひとつ、把握することができないのであります」

法印の声は、切実であった。

若い範宴は、感激のあまり、思わず彼の手をにぎって、

「聖覚どの。あなたがいわるることは、いちいち私のいおうとするところと同じです。二人は、ほとんど同じ苦悶をもって同じ迷路へさまよってきたのでした」

「七日七夜の参籠で、範宴どのは、何を得られたか」

「何も得ません。飢えと寒気だけでした。――ただ、あなたという同じ悩みをもつ人を見出して、こういう苦悶は自分のみではないということを知りました」

「私はそれが唯一のみやげです。あしたは叡福寺を立とうと思うが、もう叡山には帰らないつもりです」

「して、これから、どこへさして行かれるか」

「あいはない……」

聖覚はうつ向いて、さびしげに、

「ただ、まことの師をたずねて、まことの道を探して歩く。――それが生涯果てのない道であっても……」

二人の若い弥陀の弟子たちは、じっと、そばにある紙燭の消えかかる灯を見つめていた。

すると、更けた夜気を裂いて、どこかで、かなしげな女のさけび声がながれ、やがて、嗚咽(おえつ)するような声にかわって、しゅくしゅくと、いつまでも、泣きつづけている――

「はて、怪しい声がする」

範宴が、面をあげると、聖覚法印も立ちあがって、

「どこでしょう、この霊地に、女の泣き声などするはずがないが……」

と、縁へ顔を出して、白い冬の夜を見まわした。