往相回向の信と獲信(1月後期)

ところが、念仏する衆生に歓喜の心が起りません。

なぜでしょうか。

衆生には本来的に真実の信楽が存在しないからです。

そこで阿弥陀仏は、正覚の因である信楽を至心の全体で成就され、念仏を通して衆生に、本願の信楽を一心に信ぜよと願われるのです。

ではこの信楽が、どのようにして衆生の心に顕かになるのでしょうか。

この真理が本願成就文で

「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」

と説かれます。

名号を通して信楽が、衆生の心を震わせるが故に、やがて衆生はその本願の名号を聞いて、信心歓喜することになるのです。

けれども、もし衆生に浄土に生まれたいと願う心が生じなければ、浄土の存在意義はなくなります。

願生者がなければ、浄土教は成立しないからです。

ところで、愚かな凡夫には真実浄土を願う心など存在していません。

迷いの坩堝の中にあって、悟りへの道を見出すことができないからです。

だからこそ、この

「信心歓喜」

する心は、必然的に一心に浄土に生まれたいと願う心に転じられなければならないのです。

そのため、如来の信楽はそのまま衆生に対する招喚の勅命である欲生の心となるのです。

そこで、信楽した衆生は自ずから彼の安楽浄土に生まれたいと願うようになります。

なぜなら、阿弥陀仏が衆生の願生の心を

「至心に廻向したまへる」

からです。

阿弥陀仏の往相廻向の信は、名号を通して衆生に廻施されることが明らかになったのですが、ではその心がまさしく廻施される、阿弥陀仏と衆生の接点はどのようにして生じるのでしょうか。

ここで本願と成就文との関係が問題になります。

「その名号を聞きて」

という一点で、如来と衆生の接点が問われることになるのです。

衆生の獲信は、阿弥陀仏の信楽の廻施に依ります。

それは、名号を通して衆生に来たります。

しかしながら、どれほど一心に衆生が称名念仏したとしても、単に名号を称えるだけでは阿弥陀仏の信楽の真理は絶対に衆生の心には開かれません。

どうしてもここに、愚かなる衆生に、名号の功徳の一切を信知せしめる、今一つの善巧方便の働きが必要になるのです。

ここに釈尊の説法としての成就文の意義があります。

阿弥陀仏が一切の衆生を摂取する二種の廻向は、至心信楽欲生の三心を成就され、南無阿弥陀仏という乃至十念の念仏となって、衆生に来たります。

それゆえ、衆生はその名号を称える時、弥陀の大悲に摂取されているのです。

ただし、念仏の衆生は既に阿弥陀仏の摂取の中にあるとはいえ、衆生が名号の真実功徳の相を如実に知らない限り、いまだ真の意味でその衆生は阿弥陀仏の救いの中にあるとはいえません。

摂取されていることが信知されなければ、その事態はその衆生にとっては全く無意味なことでしかにないからです。

そこで、念仏している衆生に名号の真実義を知らしめる行為がいま一つ絶対に加わらなければならないことが明らかになります。

何かというと、既に名号の真実功徳を如実に知見している善知識の、未だ阿弥陀仏の大悲を知らない衆生に対する説法がどうしても必要なのです。

未信の衆生は、名号の説法を一心に聴聞することによってのみ、名号の真実がその通りに聞えることになるからです。

「本願」の文は、阿弥陀仏自らの誓いの言葉です。

一方「本願成就文」は、釈尊が阿弥陀仏の真意と本願の成就を私たちに理解させようとして教示される釈尊自身の言葉です。

「その名号を聞きて」とは、弥陀廻向の

「南無阿弥陀仏」を聞くということですが、それと同時に名号の真実功徳を説かれる釈尊の説法を聴聞することです。

この聴聞を通して、初めて衆生に信心歓喜が生じるのです。

「真実信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたり…」

と親鸞聖人は手紙で述べておられますが、まさに弥陀・釈迦の方便がなければ、衆生の信心の獲得はありえません。

こうして、往相廻向の本願の行には、阿弥陀仏から廻向される名号と共に、釈尊の説法、名号を讃嘆される釈尊の行為が同時に含まれることになるのです。