『利他他者の喜びを自らの喜びとする』(後期)

仏教の教えに「自利利他円満」という教えがあります。

「自利」というのは自分が幸せになるということであり、「利他」というのは他者にも幸せになってもらうということです。

そして「自利利他円満」というのは、自分の幸せ(自らの喜び)が、他人の幸せ(他者の喜び)にもつながり、他人の幸せ(他者の喜び)が、自分の幸せ(自らの喜び)にもなるということです。

いわば「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。」(宮澤賢治)という世界です。

この教えは、「なるほど」と思う反面、現実問題となると、非常に難しいものをかかえています。

何故なら、私たちは自分の幸せ(自利・自らの喜び)を得るために努力することができても、それを後回しにし、他人の幸せ(利他・他者の喜び)のために努力するといことが苦手なものです。

ましてや、他人の幸せが、必ずしも直接的に自分の幸せにつながると思えなければなおさらです。

そこには、自分が一番可愛いという、「自我」の思いがあります。

しかし、他人のことはほっておいて、自分の幸せのみを追求すればどうでしょうか。

じつに、ギスギスとした、争いごとの絶えない凄惨な社会となります。

私たちは、そんな社会を決して求めていません。

それ故に、自然と、「おもてなし」「おもいやり」「おかげさま」等の言葉に、何か、懐かしさや、安らぎを感じ、心がひかれるのではないでしょうか。

大切なことは、「自分」「他人」という「自我」の壁を可能な限り低くし、

<少しでも相手の心を知ることができる>ように努めることです。

しかし、実は、このことが難しいのです。

私の直接の体験ではありませんが、この度の「東日本大震災」に際し、浄土真宗本願寺派東北教区災

害ボランティアセンターで長期にボランティア活動に従事された方の手記の要旨を紹介させて頂きます。

(紙面の都合上、割愛のこと、すみません)

ボランティアにおいて大切なのは<寄り添う>ときの心構えです。

ボランティは自発的ですが、「私が」「私が」という思いが強すぎ、被災者の方から感謝の言葉を頂くと、自分の行為を認めてもらった、評価してもらったという思いにとらわれてしまい、相手の立場に立つことを見失うことがある。

言葉遣い一つとってもそう。

「ガンバレ」〜被災者は震災直後から十分頑張っておられ、頑張りすぎて疲れている方もおられます。

「助かって良かったね」〜本当に良かったと思っているか・・。家族や友人を亡くし、何故私だけがという自責の念にかられてはいないか。

こちらが良かれと思って行った行動が被災者には迷惑だったり、嫌な思いをさせることもある。

主役は被災者。

私たちはその方々のお手伝いをさせて頂いている。

悲しみに寄り添い、その思いを分かち合っていきたい。

以上です。

振り返れば、時には多少の犠牲を払ってでも、他者のために奉仕することもありますが、そのうちに

「情けはひとのためならず」

と、いずれ自分にかえってくることを計算したり、世間の評判をひそかに期待したり、そうでない場合でも

「よいことをした後は気持ちがよい」

などと、貸しをつくって自己満足におちいっています。

そのような悲しいあり様を、親鸞聖人は、阿弥陀如来(法)の鏡に照らされて「凡夫」であると言われました。

「凡夫」とは、サンスクリット語では「プリータークジャナ」と言い、「隔てをおいて生を営むもの」と直訳できるそうです。

私たちは、まさに阿弥陀如来に照らされる中、社会の現実に向きあって進むことで、あらためて「凡夫」として不十分、不完全であることを知らされると共に、そのことを自覚しつつ、少しでも

「利他他者の喜びを自らの喜びとする」生き方を願いとして、歩みを進めていきたいものです。