親鸞・女人篇 2014年3月19日

「使僧範宴とは、何者の子か」関白基通(もとみち)が、鷹司(たかつかさ)右大臣を見ていった。

「さあ?」と鷹司卿はまた、冷泉(れいぜい)大納言のほうを向いて、

「おわきまえか」と訊ねた。

「されば、あの僧は、亡き皇后大進(だいしん)有(あり)範(のり)の子にて日野三位(さんみ)の猶子(ゆうし)にてとか」

「ほ。藤原有範の子か」

基通は、黙った。

公卿たちの頭には、姓(せ)氏(い)や家門というものが、人を見るよりも先に支配する。

無名の者の家の子なら、大いに蔑(さげず)んでやろうと思ったかも知れないのである。

「そうか、有範の子か」囁(ささや)きがその辺りをながれた。

時刻を指示してあるので、公卿たちは、衣冠をつらねて、範宴の参内を、待ちかまえていたところであった。

やがて次々(つぎつぎ)から、関白まで、取次がとどく。

基通は、またその由を、御簾(ぎょれん)のうちへ奏聞(そうもん)した。

一瞬、公卿たちは、固唾(かたず)をのむ。

末座遠く、範宴のすがたが見えた。

いっせいに、人々の眼がそれへ射(い)た。

人々は、はっと思って、

(不作法者っ)と顔色を騒がせた。

なぜなら、ふつう、初めて参内する者は、遠い末席にある時から、脚はおののき、頸(うなじ)は、俯(うつ)向(む)き、到底、列座の公卿たちを正視することなどできないものであるのに、範宴少僧都は、怯(お)じるいろもなく、砧(きぬた)の打目のぴんと張った浄(じょう)衣(え)を鶴(かく)翼(よく)のようにきちんと身に着け、眸(ひとみ)を、御簾(ぎょれん)から左右にいながれる臣下の諸卿へそっと向けて、二歩三歩、座のところまで進んできた。

公卿たちが、はっと感じたのは、あまりに、彼のすがたが巨(おお)きく見えたためであった。

およそどんな武将や聖(ひじり)でも、この大宮所で見る時は、あの頼朝ですらも小さく見えたものである。

それが、まだ一介(いっかい)の若僧(にゃくそう)にすぎない範宴が、いっぱいに眼へ映(うつ)ったことは、

(不(ふ)遜(そん)な)という憤(いきどお)りを公卿たちに思わすほどであった。

しかし静かに、座をいただいて玉座のほうへむかい、やがて拝をする彼のすがたを見ると、公卿たちの憤りも消えていた。

作法は、形ではなくこころである。

範宴の挙止には真(まこと)が光っていた。

天皇も仏子(ぶっし)であり、仏祖も天皇の赤子(せきし)である。

仏祖釈尊(しゃくそん)もこの国へ渡ってきて、東なる仏国日本に万朶の仏華を見るうえは、仏祖も天皇のみ心とひとつでなければならないし、天皇のおすがたのうちにも仏祖のこころがおのずから大きな慈愛となって宿されているはずである。

この国のうえに多くの思想や文化を輸入(いれ)たもうた聖徳太子のこころを深く自己の心の根に培(つちか)っていた範宴は、そういう常々のおもいがいま御座(ぎょざ)ちかくすすむと共に全身をたかい感激にひたせて、眩(まばゆ)い額(ぬかずき)をいつまでも上げ得なかったのである。

御簾(ぎょれん)のうちはひそやかであったが、土御門(つちみかど)天皇も、彼のそうした真摯(しんし)な態度にたいして、しきりにうなずかせられていた。