真宗講座浄土真宗の行(5月前期)定説への疑問 はじめに

浄土真宗において「行」を問題にする場合、まず注意しておかなければならないのは、私自身がどのような立場から述べようとしているのか、その位置づけを明確にすることだと思われます。

なぜなら、周知のように私たち真宗者は、行に関して質を異にする「三種の行」に出会っています。

第一は「阿弥陀仏の名号」で、この大行は一切の衆生を無条件で摂取するはたらきとしての「行」です。

第二は「諸仏の称名」で、この行は諸仏が衆生に弥陀の阿弥陀仏の名号を讃嘆して説法する行為としての「行」です。

第三は「衆生の称名」で、これは未信の衆生が、諸仏及び獲信の念仏者から阿弥陀仏の名号を聞く「聞法」という行為としての「行」で、ここに「信楽を獲得する」という場があります。

さて、この「行」は、いずれの場合も「無碍光如来の名を称す」という行態を取ります。

したがってこの「称名」を問題にする際は、自分がいま問題にしている「行」はこの三種の行の内のいずれであるかを自身がはっきりと認識しておく必要があります。

三者はそれぞれ「行」の概念を異にするからで、これを混同すると、論旨が曖昧になるばかりではなく内容そのものに矛盾が生じてしまいます。

それは当然のことであって、論究における方向性の確立は、論旨を一貫させるための第一条件だといえます。

ところが、これが伝統宗学の「行論」では、必ずしも満たされているとは言い難いのが現状です。

そればかりか、むしろ「行論」そのものを、自身の立場を確立することのないまま展開させているところに問題があるように思われます。

したがって、伝統宗学では「行論」が非常に煩瑣であると言われるのも、実はここに原因があると考えられます。

もし本来異なった範疇に属するはずの行の概念をそこに混入し、しかもそれに気付かないまま論を推考しているのだとすると、当然のことながらその理論は煩瑣なものになってしまいます。

しかもこの矛盾性は、単に宗学内に限られる問題ではなく。

親鸞聖人の念仏思想を論じるすべての者が係わるもののように思われます。

なぜなら、親鸞聖人の思想を論じている者は、無意識の内に何らかの形でこの伝統宗学によって意義付けられた教義の影響を受けていると見られるからです。

このため、宗門の内外にあって宗学に対して批判的立場を取っている学者までが、この中で論を展開しています。

念仏について論じる場合、宗学外の学者は往々にして伝統的教義を批判することが少なからずあるのですが、その批判をしている学者自身が、伝統の宗学によって導き出された定義を根拠にして、自己の論を展開していることがよく見られるのです。

一、二その具体例を示してみます。

浄土宗と浄土真宗においては、法然聖人と親鸞聖人の念仏思想の同異がよく問題になります。

例えば、光地英学氏は、

法然の思想の根本は「専修念仏」であり、親鸞の思想の本質は「信心正因」にあると一般にされている。

けれども『西方指南抄』などに示されている、法然の「信」と「念仏」の関係を見ると、念仏が次のごとく、ほぼ三つに分類されうる。

一、信を得たものが行ずる念仏。

二、未信のものが念仏することによって信を生ずる念仏。

三、行とか信とかが意識されるのではなく、自然に相即しあっている念仏。

かくみると、法然の思想を専修念仏といっても、そこでは「信」がことに重視されており、信心正因的意義がここに見出される。

一方、親鸞の思想においても、念仏と信との間に、このような関係を認めることができるから、「専修念仏」と「信心正因」は、単に表現の違いというべく、法然と親鸞の思想には本質的差はないと見るべきではなかろうか。

と論じられています。

これなど、真宗学内においても、従来しばしば論じられてきた論考と全く同一の次元に立つものと窺われ、ここに意味する「信心正因」の語意も、それ故に光地氏自身の独自の見解ではなく、宗学的意義をそのまま依用された論のように見受けられます。

けれども、このように法然聖人と親鸞聖人の思想を画一化するには、両者の思想はあまりにも深すぎるのではないかと思われます。

もちろん、両者の念仏は、ある場において同一の基盤に立ちうるものであることは言うまでもありません。

しかし、そのような同一の基盤を有しつつも、他の場合においては、全く異なった範疇に属するものとなることもまた事実です。

したがって、このような場合には、一つの「場」の設定が必要となり、両者の思想の比較はその一観点を通してしか論じることは出来ません。

親鸞聖人の念仏が法然聖人の念仏と対比されるような時は、両者がそれぞれの念仏をどのような意図のもとに語ろうとしておられるのか、その心を見ることなくただ単に類似的な言葉を漠然と並べるのみでは、両者の念仏の概念規定にはなりません。

この点から光地氏の論を窺うと、親鸞聖人が意味しておられる念仏のいずれの立場に、法然聖人の念仏思想があてはまるのかということの検証が疎かになっているため、論は上辺を形式的に走っているだけに過ぎず、法然聖人と親鸞聖人の思想の根元を捉えて、それを追求するまでには至っていません。

それは、親鸞聖人の大行の思想の見落としだと考えられますが、この点こそ伝統宗学の最大の難点であり、以下において論及したい点でもあります。