真宗講座浄土真宗の行(6月前期)「行」に関する定義

『真宗行信論の組織的研究』(普賢大円著)という著述があります。

これは、宗学三百年の歴史の中で研鑽された諸先哲の業績を組織的に集大成したもので、宗学の中心課題である行信論の思想の発展の経路が端的に解明されています。

そこで、しばらくこれにより、宗学における「大行論」の方向を跡づけてみることにします。

一般に宗学では、大行を大きく二つに分けます。

一は「私が仏名を称える」という点に主体を置き、衆生の称名をもって「行」とする立場であり、二は「称えられる名号」すなわち法体の大行をもって「行」とする立場です。

この二つの流れの内、前者を「能行説(派)」、後者を「所行説(派)」と呼びます。

では、現在それぞれの立場では、どのような結論が導き出されているのでしょうか。

二つの派は、まず単に衆生の称名に限る学派と、また法体の名号に限る学派との両極に分かれます。

前者が純粋能行説、後者が純粋所行説と呼ばれているものです。

いうまでもなくこれらの二説は、いずれも不完全なものであって、互いにいくつかの欠点を宿すとされています。

その顕著なものの一つに、親鸞聖人の著述には二説いずれもの論拠となりうる文が存在する、という点があげられます。

二つの方向が存在するからこそ、一方において、その中にある点を論拠に純粋能行説が成立し、同時に他方において別の点を論拠に純粋所行説が成立するのだといえます。

だとすれば、一方に限定したのでは、親鸞聖人の思想を完全に把握したことにはならなくなり、各々がその論拠に固執する限り、二説は互いに存在することになります。

ここにおいて、親鸞聖人の示された二つ方向を同時に成立せしめる学説が必要になります、これが能行を中心とする折衷説と所行を中心とする折衷説です。

それでも、なお親鸞聖人の思想を十分に説明し尽くせたとはいえないとします。

折衷は、互いに他の存在を認めるものの、それが真に交わるまでにはいたらないからです。

ここに思想の最終的段階として、親鸞聖人の二つの立場を同時に満足させるべき、二者の相即を語る能所不二の円融思想が生じることになります。

したがって、能行円融説と所行円融説は、共にそれぞれの区分の最頂点に立つ思想ということになり、大行論に関する宗学の最も深い哲理もまた、ここにあるとされます。

そして、このような研究の方向は、学説一般のように窺えます。

けれども、この能所不二の学説においてもなお、能行を取るか所行を取るかで大いに論旨は異なってくるといわなければならず、現在でも二説は互いに他を徹底的に論破することができないまま平行線をたどっていると見られ、その結果大行論はますます複雑、難解さを増してゆくことになります。

では、いったいそれぞれの学派は、どのようなところに細心の注意を払い、何に心血を注いで自己の学説を確立しようとしているのでしょうか。

そして、その学説は他の学派からみると、どのような批判を加えられるべき欠点を有しているのでしょうか。

純粋所行説と純粋所行説は、一方は大行を衆生の称名に限り、他方はそれを法体の名号に限定しています。

その両説の難点は、ほぼ次のようなところにあるとされます。

まず、能行説の方からみると、「(1)称名正因の難」「(2)信称同時の難」の二点があげられています。

すなわち、(1)この学説は、もちろん自力の行信を主張するのではなくて、意図するところは他力廻向の行信であり、しかも行信不離の中、信をもって正因とします。

しかし、諸仏の讃嘆が純粋なる能行を勧めるとしている限り、たとえ称名が他力廻向の行であっても、その諸仏讃嘆を聞く衆生の信相は、能称立信に陥り、ともすれば称名正因に堕し易いという可能性を含むといわなければなりません。

(2)能行説の他の一つの難点は、信一念に行を欠くところにあります。

能行説では、法体大行が衆生に領納されたのが信一念ですから、そこには必然的に信行が具足します。

けれどもこの方は、大行は唯口称だとする結果、信一念は念仏往生と信じるのみであって、法体大行を具足せず、行の具足は衆生の称名をまって後になります。

これが能行説に見られる欠点です。

これに対して所行説の方の難点は、

「(1)仏因仏果」

「(2)称名に対す不当の見解」

「(3)信後の称名の必然性を欠かしめる」

の三点があげられています。

すなわち、(1)大行を法体名号に限ると、三法組織の時はそれが直ちに証果に向うため、衆生に関するところがなくなります。

(2)大行出体釈の「称無碍光如来名」や称名破満釈等の文の解釈にどうしても無理が生じます。

(3)能行説が信一念に行を欠いたのとは反対に、名号大行を領受する信心によって往生ということになり、信心の内容に必ず称名をしなければならないという意識が含まれてこない等の理由が考えられています。

さらに、これに加えて両者に共通するものとして、先に示した、もし一方に限るとすれば聖典中の他説の論拠となっている文意の解釈に直截な解釈をほどこすことができなくなるという難点があげられます。

したがって、これら両者は、これらの難点を是正する必要に迫られることになります。

この場合、自説の欠点が互いに他の側の長所としてあるところに、これらの説の特徴があります。

ここに、自説の欠点を正し、両者の長所を共に生かすべき「能所不二説」の生じた必然性を見出すことになります。