『盂蘭盆会 心静かに南無阿弥陀仏』(中期)

日頃、仏壇の前に座って手を合わせているとき「無心に仏さまや親鸞聖人の恩徳を思い讃嘆しているか」と問われると、「なかなかそのような思いには至れません」というのが、正直偽らざるところです。

やはり、仏前に座ると、既にお浄土に往かれた縁ある方々のことがあれこれと思いだされます。

また、お盆の時期には、ことさらそのような思いが私の胸を去来します。

さらに、お盆にはそれに加えて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏申す一声、一声の中に一種独特の感情がわき起こってくるのを感じることがあります。

それは、おそらく祖父・祖母だけではなく、無数の祖先からの呼び声なのかもしれません。

思えば、祖父・祖母だけでなく、何十年、何百年もの長きにわたって縁ある人びとがこの念仏を口にし、その念仏によって生き、念仏の内に死んで行ったのです。

「南無阿弥陀仏は生きてはたらく事実だ」と言われますが、ではいったいどこにはたらくのかというと、父祖の人生の歩みにおいてなのでしょう。

そのような意味で、念仏を喜んでその一生を尽くした祖先の方々の生涯こそ、南無阿弥陀仏が生きてはたらく事実を何よりも証するものだと言えます。

したがって、私は、耳をすませ虚心にこの父祖の語りかけに向き合おうとするならば、そこに信仰の篤かった祖父、念仏を喜んだ祖母だけではなく、今は亡き有縁の無数の人びとが、時には厳しく、時にはなつかしく、この私に語りかけてくる声が聞こえてくるかのような思いがいたします。

浄土真宗では通夜・葬儀などの際に

「この世の別れが最後でありません。私たちにはまた会う世界があります」

と言ったりします。

これは「阿弥陀仏の極楽浄土に往生したら、先に極楽へ往っているご先祖や親しい人たちに会える」ことを意味する「倶会一処(くえいっしょ)」という『阿弥陀経』に出てくる言葉に依ったものと思われます。

そうしますと、私のいのちは死によって砕け散ってしまうのではなく、かつて私の祖先であり、今は仏さまとなられた方々の声、具体的には私の称える念仏の声に呼びかけられ、その願いにふれて父祖や有縁の人びとと本当に一つになれる世界に生まれていくのだと言えます。

先にお浄土に生まれた人が後に残った人びとを導き、後に残った私たちは先にお浄土に往かれた方の後を訪ねていく。

その営みが、親から子へ子から孫へと連続して絶えず繰り返されることにより、念仏の教えに生きた人びとは、今度は浄土の家族として集うことができるのです。

現代の生活は、核家族が当たり前のようになり、その家族も子どもが成長するとばらばらになってしまいがちです。

けれども、たとえ生活の場では離れて暮らしていても、目には見えない深いところで頷きあい、そして必ず和合することのできる場所があります。

それが、いのちの帰する世界、お浄土です。

日頃、なかなか心静かにお念仏を口にすることのできない私たちですが、身近な亡き方に、そして先祖の方々に心を寄せるお盆には、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏申しつつ、その念仏の声の中から聴こえてくる、私への語りかけに静かに耳を傾けたいものです。