真宗講座浄土真宗の行(8月前期)出体釈にみられる諸説

石泉学派を代表する僧叡師は「称無碍光如来名」の大行を、「信を具足する衆生の称名」とされます。

その大綱は、次のように窺うことができます。

真実行に関して、古来、能行であるか所行であるかが論議されてきましたが、その結果主流は所行であると言えます。

けれども、もしこの行を所行だと断定すると、行がそのまま教の意となり、教と行とが分かれている意味がなくなります。

したがって「行巻」の行は、「能行」としなければなりません。

すなわち、「行巻」の行は教を受ける衆生の行となるのです。

だからといって、この行は信を離したものではありません。

それを教と行信の関係において詳しく論じると、真実教は諸仏の上で、真実の行信二法は衆生の上で論じられるべきものとします。

その中「教」というのは、釈尊によって説かれた『仏説無量寿経(大経)』の教えがそれで、経典に示される仏願力廻向の名号法を衆生が受け入れた相が行信二法になります。

そこで、行も信もその本質はただ願力一つだというべきですが、その受けとめ方によって自然と二法に分かれます。

「法相の表裏」と「稟受の前後」がそれです。

法相の表裏というのは、行は口称として外に形となるものですから表となり、信は心念として内に潜むものですから裏となります。

まさに表裏の関係にあるのですから、この行は必ず大行と相応しますし、自力行とは異なります。

稟受の前後というのは、衆生が真実教を受ける際は、心に聞信することが最初になります。

そうすると、ここでは信から行へという形をとり、信が先で行が後ということになります。

この内、『教行信証』において行が信に先立つのは、この書の組織が法相の表裏によっているからです。

ところが、口業の称名が大行だとすれば、止観・要門・真門の自力の念仏と混同されるのではないかという疑問が生じます。

しかし、そのようなことはありえません。

なぜなら、ここでいう大行とは、第十八願の乃至十念の称名を指しているからで、自力心のまじわる称念を指しているのではないからです。

そうすると、称念するといっても、称念に功を認めて、それを往生浄土の業因とするのではなく、ただ聞くことのできた法体のあらわれを指して大行といのうですから、第十九願、第二十願及び止観の念仏にはなりません。

そうだとすれば、諸仏の称名も衆生の称名も、ただ一本願の名号から出たものにほかならなくなりますが、これをもし諸仏に限定してしまうと、大行とは諸仏の称名のみで衆生とは無関係になってしまうおそれがあるので、正定聚の機が行ずる称名念仏を大行とするのです。

ではなぜ、大行を第十八願で示さず、第十七願で受けたのでしょうか。

それは第十七願には「当分・跨節」の二意があるからです。

前者は衆生に第十八願に帰入せしめるためのもの、後者は如実の法を聞信して生じる称名ですが、今は所聞のところで顕すことから、第十七願を出しているのだとしています。

空華学派の大行論は、現在ほぼ次のように要約されているようです。

第十七願の「我名」を直ちに大行と名づけ、その法体を能所不二の妙行とします。

したがって、第十七願の名号と第十八願の三信とは、所信能信不二の関係にあるとし、また名号と十念とは、所行能行不二の関係にあるとします。

すなわち、仏廻向の大行を行者が領受して、行者の能行が現れます。

このことから「大行者則称無碍光如来名」といい、しかも衆生の能行は法体大行が直ちに現れたものですから、称名には法体そのままの功徳を有しているとするのです。

ここを指して僧鎔師は

「終日能行すれども所行海を離れぬなり、能とて別にはなし所行を能行するなり、爾れば所行が即能行となる、能の外に所なく所の外に能もなし、能所不二これ円融無碍也」

といわれ、善譲師はまた

「此の教行証の行は、能所不二鎔融無碍の大行。局て所とも取るべからず。又能行とも局るべからず。能とすれば能なり。所とすれば所なり。融通無碍にあつかわれるが、他力真実の大行と存せらるるなり」

と言われます。

では、なぜ大行が能所不二でなければならないのでしょうか。

善譲師の「大行名体」によれば、聖教には大行をあるいは称名とし、或いは名号としています。

そうすると、能所不二の真実行をもって、他力の大行とせざるを得ないとされ、その道理を、もし大行が称名に限定され、「我名」の法体が直ちに大行とならなければ、行者の能称をまって、はじめて大行が成就したせざるを得ないからだと述べられます。

そして、名号が大行と言われる得るのは、因位果上の行徳がここに悉く摂具して、衆生往生成仏の行体となるからだとされ、また称名が大行と言われうる理由は、法体がすでに大行の徳を全て有する称名だからで、必然的に称名が大行となるのだとされます。

このように見れば、第十八願の「乃至十念」は、「十声一声聞くひと疑うこころ一念もなければ、真実報土へ往生する」名号の意味になります。

そこで、この大行と衆生の信との関係をみると、能所不二の大行に就いて、仏廻施よりいえば、名号が全く信となるのですから、所行能信の順になり、機の受行に約していえば、信受し行ずるのですから信行の順にするべきだとされます。

豊前学派の円月師は、「行巻」初頭の「称無碍光如来名」を

「称名念仏の行を名けて大行と為す。然るに称名一行に二の別あり。若し称名の功を存すれば、是れ自力にして真実行と為さず。他力に全託して機功を脱却するときは法体名号自然に顕発し、任運に相続す。是を如実行となす。自力を離るるが故に法体に契当す。法体に契当するが故に能所不二にして、終日の称名即ち是れ法体なり。此大行、外諸行に対すれば廃立を成じ、内大信に向へば所信を成ず」

と解釈されます。

これより、円月師の大行思想は「称名念仏」とひとまずおさえながら、それが「法体と不二なる称名」とされるところに、その特徴があるように窺われます。

そこでこの義を少し詳しく述べますと、円月師はこの行としての称名を「一、行者の修相」「二、称名の具徳」という二面からとらえられます。

前者の行者にとっての称名とは、獲信後の称名をいいます。

したがって、この称名は報恩の称名であって、往因となるべき定散自力の称名とは厳密に区別されます。

後者の称名の具徳とは、明らかに正定業となるべき称名です。

浄土真宗では、正定業に名号・信心・称名の三重をみますが、その根本である「万行円備の嘉号」がそれです。

つまり仏にあっていえば六字の名号となり、法を全うじて機に入れば是れを信となし、心を全うじて口に現れれば称名となって衆生を往生せしめる名号が称名の具徳です。

行には古来「造作進趣の義あり」とされますが、前者は造作の義のみで、後者においてこの二義が有せられるため、称名の具徳が「行巻」における行の意になります。

所具の行をもって能具に名づけ、大行とすることから「称即名」といわれるのですが、この義こそ諸仏によって讃嘆される名号にほかなりません。

さて、諸仏所讃の名号とは第十八願の意ですが、ここには三心と十念が誓われています。

信行ともに兼ねている願を、なぜ第十七願と二願に配分するのでしょうか。

それは、二願の意義がそれぞれ違うからで、もし機に即して言えば信をもって主としなければなりません。

往因を決定付けるのは信の一念にあるからで、このため三信を主として十念を従とします。

ところが、これを法に即して言えば行をもって主としなければなりません。

教相の廃立、つまり諸仏法中にあって、弘願一乗の法をたてようとすれば、この称名行をもってすることが、かれを廃しこれを立てるのに都合が良いため、称名を表となして大信を自ら具しているのです。

第十八願は機の位であるため、具行の信に即して「信巻」にこれを明かされ、第十七願は教の位にあるため、具信の行に即して「行巻」にこれを明かされているのです。