小説・親鸞 岡崎(おかざき)の家(いえ) 2014年11月25日

――なぜあの時よびとめて、名だけでも訊いてみなかったか。

綽空は、草庵をとざして、夜の孤(こ)寂(じゃく)に入ってからも、瞑想(めいそう)の澄(ちょう)心(しん)を、それのみに結ばれてしまうことを、どうしようもなかった。

ほとほとと外を軽く打つ者がある。

また悪戯(いたずら)な林の獣どもかと、しばらくすてておくと、

「庵(いおり)の主(あるじ)はお留守か」

明らかにそういう。

「――燈(あか)火(し)の影を見うけて立ち寄ったものでおざる。苦しゅうなくば宿をおかしくださるまいか。決して怪しい者などではありません」

綽空は起って、

「旅のお方か」

「されば」と、戸の外で言葉をうける。

「さすらいの琵琶(びわ)法(ほう)師(し)です」

「ただ今、あけて進ぜよう」

戸を開(あ)けると、星明りの下に、一面の琵琶を負った盲人が杖ついて佇(たたず)んでいた。

こなたから声をあげぬうちに、

「はての?」盲人は小首をかしげて、

「あなたは、範(はん)宴(えん)少(しょう)僧(そう)都(ず)ではないか」

「おう、加古川の峰(みね)阿(あ)弥(み)どのか」

「やっぱり範宴どのか」

「今では念仏門の法然上人のもとへ参じて、綽空と名を改めておりますが、仰せのごとく、その範宴です」

「そうそう、そういう噂は疾(と)く聞いていた。……しかし、ご縁があるのじゃのう、なんでもこの辺りに住まわれているとは承っていたが、よもやこの庵(いお)が、あなたのお住(すま)居(い)とは思わなかったに」

「まず、お上がりなさい」

綽空は、取りとめのない雑念から救われたような気がして、峰阿弥の手をとった。

松(まつ)の実(み)を、炉に焚(た)き足して、

「お久しいことでしたな」

「まことに」

峰阿弥は、琵琶の革(かわ)緒(お)を解いて後ろへ置きながら、

「あなたは、ずんとお変りになりましたな。お体も健やかになられた。お心も明るくなった。そして真(ひた)向(む)きに現在のご信念に坐っておられる。祝着(しゅうちゃく)にたえませぬ」

と、見えるようなことをいう。

けれど綽空は、この法師のすさまじい「勘」の力を知っている。

目あきに見えないものすらこの漂泊人(さすらいびと)は見えることを知っていた。

「そうでしょうか。そうお感じになりますか」

「よう分ります。あなたの五(ご)韻(いん)の音声(おんじょう)が数年前とはまるで違っております」

この通りな峰阿弥である。

そう説明されてみれば、わずか四つの絃(いと)に森(しん)羅(ら)万象(ばんしょう)の悲喜さまざまな感情を奏でて人を動かそうとする芸術家である以上、人間の音声(おんじょう)をもって人間の健康や心境を聞きわけるぐらいな耳は当然に持たなければならないはずであるし、わけてこの法師のするどい官能からすればいとやすいことに違いなかろうが、綽空は、そういいあてられると、さらに、その奥の奥までを、透明に、見すかされているような気がして、恬(てん)然(ぜん)としておられなかった。