小説・親鸞 岡崎(おかざき)の家(いえ) 2014年11月28日

炉(ろ)にくべた松の実は、ほどよい火になって、ほかほかと無言の二人を暖めた。

峰阿弥は外の木枯しに耳を澄まして、

「冬もよいなあ」と、しみじみという。

「行きなやむ霙(みぞれ)の夕暮れは辛いと思いますが、辿(たど)りついた家の情けで、こうして人心地のついた時、そして、家の主(あるじ)と共に話しながら炉の温(ぬく)もりに浸(ひた)る時、やはり生きている欣(よろこ)びを覚えますわい」

「ですが、峰阿弥どの」

綽空は、真面目な態度を見せて、こう改まった。

「私には、まだこの寂境(じゃっきょう)の独り居が、ともすると、雑念の思いにふける巣になって、しみじみ、孤独をよろこぶまでにはいたらない。近ごろは念仏専念に、いささか心の安らぎはあるが――」

「ご無理もない……。人間じゃもの。なぜあなたは、もう一歩出ないか」

「出ないかとは」

「申しかねることじゃが、そのお若い血を、制(おさ)えようとなさるか」

「…………」

「わしのような破戒僧になり召されとはいわぬ。

風雅へ逃避なされともすすめぬ。

しかし僧侶の生活を離れて見て初めて僧侶の生活が分かったような気がします。

大きな問題じゃ、まずその生活の根本義から僧侶は今の矛盾をすてて、大道に立ち直らなければなりますまい」

「私も考えているのです」

「人間の中の仏教でなければならぬ、あの世の浄土ではもう人が承知せまい、現世が楽であり、現世が住みよく、楽しく、明るいものでなければなりますまい。その教化(きょうげ)に立つ僧侶の生活はどうでしょうか。

――わしがまずお手本じゃ、隠れてすることなら咎(とが)めぬが、人に見つかったが最後、女犯(にょぼん)という、堕(だ)地(じ)獄(ごく)という、破戒僧という、あらゆる鞭(むち)に追いまわされる。そのくせ、高野の学(か)文(む)路(ろ)にせよ、叡山(えいざん)の坂本にせよ、法城のある麓には必ず脂粉の女があつまる。

その女たちの相手は誰か。また、寵(ちょう)童(どう)の行われるのも、僧侶のあいだに多いと聞きまする。おかしなことのようですが、考えてみると深刻な問題です。人間の第一義ですからな」

「…………」

綽空はそこにいるのかいないのか分からぬように黙然(もくねん)としていた。

峰阿弥は、ふと話題を一転して、

「はははは。あなたとお目にかかるといつもこうした話だ。私に何かそういうことをいわせるものをあなたが感じさせるのじゃな。肩がころう。……そうじゃ、かかる夜こそ、一曲弾(ひ)きたい、聞いてくださるか」

「望むところです。ぜひ、聴かせていただこう」

「何を語りましょうな」

後ろの琵琶をひきよせて、峰阿弥はその痩せている膝の上へかかえあげた。

いてくださるか」

「望むところです。ぜひ、聴かせていただこう」

「何を語りましょうな」

後ろの琵琶をひきよせて、峰阿弥はその痩せている膝の上へかかえあげた。