み仏の願いの真っただ中にある私(中期) 

私たちは日々生活している中で、ただ漠然と生きている訳ではありません。

誰もがそれぞれ自分なりの願いをもって生きています。

この願いは、また希望とか理想という言葉に置き換えることもできます。

そうすると、人は誰もがより良い人生を生きたい、あるいは本当の幸福を願って生きていると言えます。

そして、自身の願いがかなうことによって幸福になれると思っているのですが、では現実はどうかというと、多くの場合、幸福は未来に夢見られるものとしてしか存在せず、そのため未来に夢見た幸福から、思い描いたような状況にはない自身の在り方を悲しんだり嘆いたりしているという姿があります。

考えてみますと、未来に幸福を求めるということは、今の自身は未来に幸福を求めなければならないような不平不満の状態にあるということに他なりません。

そして、自身に対する不平や不満は、しばしば他人との比較の中から発せられます。

したがって、満ち足りない気持ちで他人を見てはその人の上に幸福を感じ、自身においては未来に幸福を夢見ることになるのだと思われます。

ところで、私たちは生活の中で、自分の願っていたことが実現した、完成したということを「願成就」という言葉で表現しますが、そういう日常生活の中で使う願成就という言葉と、仏さまの願い(本願)が成就するということは、内実は同じではありません。

私たちは、「こうなったら良いの…」に、「ああなったら良いのに…」という願いを持ち、それがなかなかかなわないことに不平や不満を抱いてしまうのですが、そのすべての願いが願いのごとくに成就するという世界があります。

それは、願成就の境界である天上界です。

自分の願いがすべてかなうのですから、幸せいっぱいの夢の理想境だと思うのですが、『往生要集』には「天上界において天人が味わう苦悩は、極苦処とよばれる地獄において亡者が受ける苦しみよりも、はるかに深い」と説かれています。

この地獄よりも深い天上界の苦しみが、天人の「五衰の相」として示されているのですが、「衰」というのは、願いが成就したときの感激や喜びが次第に衰えていくことを物語っています。

残念なことに、私たちの感激とか喜びというものは、決して長続きしません。

例えば、家を持ちたいという願いをたて、その実現のために苦労をしてようやく家を持ったとします。

その時は、喜びに満ち溢れているのですが、その後、日一日とその喜びは薄らいで行き、やがては家があるのが当たり前になり、他者との比較の中で不満さえ口にするようになったりします。

そして、感激の思いが衰えそのあとに退屈が残り、いま自分のいる場所が楽しめない、喜べないという在り方に陥ってしまいます。

それは、夢を見てしまった後の空しさとでもいうべきものです。

つまり、願いが成就して我が身が残ってしまった、しかもその残ってしまった我が身の置きどころがないということです。

私たちは、自分の願いが成就することがそのまま幸せになることだと思っているのですが、願いの成就がそのまま我が身の成就とならないところに、凡夫といわれる私たちの本質があります。

一方、仏さまの願いは、成就したらそれで終わりというものではありません。

成就することによって、あらゆる人びとに等しく生きていく勇気をよびおこし、あらゆる人びとを等しくその人自身のいのちそのものの願いに目覚めさせてゆく力として、現に私たちの上にはたらき続けているものが仏さまの願いです。

そして、その具体的相こそ、私の口を通して躍動する「南無阿弥陀仏」のよび声だと言えます。