シャルリー・エブド

1月7日午前11時20分頃、フランス・パリ11区にある風刺週刊誌を発行しているシャルリー・エブド本社を、覆面をして武装した2名が襲撃しました。

犯人達は「アッラーフ・アクバル(アラビア語で「神は偉大なり」の意)」「預言者(ムハンマド)の復讐だ」と叫びながら、編集会議のために集まっていた編集長、風刺漫画の担当記者、会議に参加していた招待客、さらには警察官など12名を殺害しました。

その後、逃走した犯人達は特殊部隊により射殺されましたが、事件の実行犯の一人シェリフ・クアシ容疑者は特殊部隊に射殺される前、地元テレビに対して「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」からフランスでテロを実行するよう指示されたと主張していました。

事件後の1月14日、イエメンを拠点とするテロ組織AQAPは、この襲撃事件について国際組織アルカイダ指導者のザワヒリ容疑者による指示に基づいて実行したと認める声明を出しました。

またその中で、イスラム教の預言者ムハンマドに対する侮辱があったため「報復としての作戦」を実施したとも強調しました。

襲撃を受けた当日発売されたシャルリー・エブドには、イスラム過激派を挑発するようなイラストが掲載されていたのですが、この新聞は2006年、2012年にもムハンマドを題材にした漫画を掲載しており、その際にイスムラ団体からの批判があり、デモにまで発展したという経緯がありました。

また、2006年にムハンマドの風刺画を掲載して以降、シャルリー・エブド関係者は絶えず「殺害する」と脅迫され、警察の警護対象になっており、2011年には同紙編集部に火炎瓶が投げ込まれて全焼する事件も発生しました。

そこで、同社に対しては、2012年のムハンマド風刺画掲載前にフランス政府から風刺画掲載の自粛要請も行なわれていました。

これらのことから、今回のテロ事件は突然起こった訳ではないことが窺い知られます。

一方、シャルリー・エブド襲撃事件以降、フランスの各地ではイスラム教徒やその関連施設などが標的としたテロに対する報復とみられる嫌がらせや暴力・発砲事件が数十件起きています。

具体的には、南部のコルシカ島ではイスラム教徒が食べることを禁じられている豚の頭と脅迫の手紙がモスクの入り口に置かれていたり、西部ポワチエや北部のベチューヌなどでは「アラブ人に死を」「アラブは出て行け」などとの落書きが見つかったりしています。

襲撃事件後の12日に発売された「シャルリー・エブド」は、襲撃事件後初となる1月14日発売号の表紙に、「すべては許される」とのメッセージの下で「私はシャルリー」と書かれたカードを掲げて涙を流す預言者ムハンマドの風刺画を掲載すると発表しました。

これに対して、エジプト・カイロにあるイスラム教スンニ派の最高権威機関アズハルは、「憎悪をかき立てるだけだ」と警告し、「(同風刺画は)平和的共生に資するものではなく、イスラム教徒が欧州や西側社会に溶け込むのを妨げる」という声明を出しました。

このアズハルは、シャルリー・エブド襲撃事件を最初に非難したイスラム団体のうちの一つで、「イスラム教はいかなる暴力も糾弾する」と批判していました。

また、ジュネーブに本部を置くジャーナリスト系NGO団体の「プレス・エンブレム・キャンペーン」もこの最新号について「配慮に欠ける行為。

プロのジャーナリストは中傷や侮辱をしてはいけない」と反対を表明しました。

これらの報道に接していると、本願寺八代・蓮如上人がおっしゃった言葉を書き留めた『御一代記聞書』の中にある「たとい正義(しょうぎ)たりとも、しげからんことをば停止(ちょうじ)すべき由候う」という言葉が思い起こされます。

ここでの「正義」は『聞書』の中での解釈に従えば、宗教安心に対する正しい理解という意味になるのですが、広く世間的に言えば「正義(せいぎ)」とみなすこともできます。

そうすると、自らの主張がたとえ「正義」であったとしても「しげからん」というのは「固執する」ということですから、自分にこそ正義はあるのだと、自らの正義に固執することは「停止すべき由候う」。

つまり「自分だけの正義に固執してそれをどこまでも主張するのはやめなさい」と述べておられる訳です。

一般に、国家・思想・宗教・平和・家庭など、世の中のすべての問題において、誰もが「自分こそ正しい」と自らの正義を主張をして行動しているのですが、この蓮如上人のお言葉は、

「その根本に執着(我執)があるならば、結局は他人を傷つけることになってしまう」

ということを教えておられるように窺われます。

日頃私たちは、常識で考えて「悪い」とみなされていることをしている時は、内心痛みを感じています。

したがって、機会があれば改心することも多々あるのですが、自分が正義だという思いに執着している時には、自身を省みようとすることはありません。

このような意味で、悪事よりもむしろ正義の方が人を深く惑わせてしまうのだと言えます。

蓮如上人はまた「まいらせ心がわろき」とも述べておられます。

「まいらせ心」というのは、「自分はよいことをしたぞ」と、それを他人におしつける心のことです。

そうすると、風刺画を掲載したシャルリー・エブド社には「表現の自由」という正義が、襲撃したテロリスト達には

「預言者(ムハンマド)の復讐」という正義があったのだと思われますが、共に「自分は良いことをしている」

との「まいらせ心」によって他人を傷つけ、自身も迷っていることが知られます。

「仏教とはどのような教えか」という問いに対して、道林禅師が答えられた

「七仏通誡の偈(もろもろの悪をなすことなかれ。もろもろの全をつとめおこない、自らその心を浄(きよ)くせよ。これ諸仏の教なり)」

の中に「自らその心を浄くせよ」いう言葉があります。

これは、まさにこの「まいらせ心」、つまり我執を破るのが仏教だと説かれている訳ですが、この事件を通して知られるのは、争いはいつも「自分は間違っていない」「自分こそ正しいのだ」と、自らの善を主張する者同士によって引き起こされるということです。

そして、お互いに自分の善に固執する限り、残念ながらこの争いは容易に決着がつくことはないのではないかと憂慮されます。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。