親鸞・去来篇 2015年2月4日

上人は、いつも講義をする道場の壇(だん)におごそかに坐り、月輪殿は、その側(わき)へ、さらに厳粛な面(おも)持(も)ちをして、坐っていた。

(何事を仰せだされるのか)と、綽空は、その前へ、手をつかえたままである。

上人は、静かに、僧房の者をかえりみていった。

「心寂や、蓮生など、これに見えぬ者も皆呼んで参るように。

そして一同、ここへ集まってもらいたいが」

「はい」奥房にいた長老たちも、やがて、何事かとそれへ出てきた。

すでに、四、五十人のいあわす弟子僧がほとんどそこにずらりと並んでいるのだ。

そして、綽空一人が、一同の環視の中に平伏している。

どうしても凡(ただ)ごとでない容(よう)子(す)なのである。

人々は、固(かた)唾(ず)をのんで、しいんとしていた、一同が揃ったと見ると、法然は、おもむろに、こういった。

「綽空――。ここにおられる月輪殿が、この法然を介して、おん身に、ひとりの妻を娶(めあ)わせたいと、今日、これへ見えられての仰せじゃ。……どうじゃの、妻をめとる心があるか、ないか?」

じっと、居並んでいた弟子僧たちの顔いろが、無言の裡(うち)に、明らかに動揺しだした。

あまりにも意外な師の言葉として、自分の耳を疑(うたぐ)っているような顔もあるし、また、法然と月輪殿の心理を不審(いぶ)かって、二人の顔を横から額(ひたい)ごしに凝視している者もある。

「…………」

綽空はと見ると、彼は、血液のある石みたいに、五体を硬くし、耳は真っ紅にそめて、依然として、大勢の凝視を浴びたまま、手をつかえているだけだった。

上人が、重ねて、

「そういう意志はないか」

と訊くと、綽空は初めて身を上げて――そして再び幾分か俯(ふし)目(め)になって、

「望んでおります」と、答えた。

案外にも平常の声であった。

「うむ――」

と大きく息を内へ引くように上人が頷(うなず)かれたので、弟子たちは、いよいよ、この師弟の心の底になにがあるのかと思い惑った。

「では、こちらのご意中を伝えるが、おん身に、娶(めあ)わせたい女性(にょしょう)というのは、月輪殿の末姫の玉日とよばるるお方じゃという。綽空には、かねて、存じおろうと思うが……。異存あるか、ないか」

綽空は、体がふるえた。

わっと、泣いて、師の上人へも、姫の父なる人へも、素(すっ)裸(ぱだか)な自分というものを目に見せてしまいたかった。

そのうえで、今日までの、また今日以後の、自己の信行(しんぎょう)を語りたかった。

しかしさすがに、こみあげる感激に、眸(ひとみ)が熱くなってしまうし、胸いっぱいな歓喜と同時に、三界の大世間を、一人の方へ乗せて立つような重圧も感じてくるし、しばらくは、答えることばが出なかった。

しかし、かねてより自分から望んで、やむにもやまれなかった大誓願である。

綽空は、毅(き)然(ぜん)と、胸を正していった。

「ありがとう存じまする。玉日のおん方のほかには考えておりませんが、あのご息女なれば、妻にもちたいと思います。仏(ぶつ)陀(だ)も照覧あれ、私は、偽りなく、玉日のおん方が今日まで、好きでならなかったのでございます。どうぞ、お計らい下さいませ」

同房数十の僧たちは、呆然(ぼうぜん)として、そういう綽空のひたむきな態度をながめていた。