親鸞・去来篇 2015年2月16日

一枚の蓆(むしろ)を、山伏は、河原へ敷いた。

四条大橋裏が、蛇腹(じゃばら)のように大きく闇へ架かって、屋根になっている。

「寝ろ」黒の首っ玉をかかえ込んで、山伏は、自分も眠ろうと努めた。

しかし、寝つかれそうもなかった。

枕元に近く瀬の水音がしているからではない。

橋の上を、時折、馬や人が通るからでもない――山伏のこめかみには青い筋がふくれていた。

ひどく昂(たか)ぶっているのだった。

「あんな、酔いどれの法師を撲(なぐ)ったとて、なんになるか、俺は愚(おろ)かな真似(まね)をした。俺の相手は、綽空ではないか」

「俺は、かつて放言した。

―― 一生のうちには必ず貴様の上に立ってみせると。

――だが容易に俺の地位は上がらない。

二十年前に彼奴(きゃつ)と会った時は、俺は叡山の仲間(ちゅうげん)僧(そう)だったし、彼奴(きゃつ)はすでに、授戒(じゅかい)登壇(とうだん)をゆるされた一院の主(あるじ)だった。

またそれから十年後に、大和路の旅先で出会った時には、彼は、もう少僧都範宴となり、南都にも聞えた秀才であったが、俺は、聖(しょう)護(ご)院(いん)の端くれ山伏にすぎなかった……」

黒を刎(は)ねのけて、彼は、むっくりと坐り直した。

汀(なぎさ)に刎(は)ねた魚の影を見て、黒は、ぱっと、水際へ走った。

「それから数年、俺は、大峰へ入り、葛(かつら)城(ぎ)へわけ登り、諸国の大山(だいせん)を経(へ)巡(めぐ)って、役(えん)の優(う)婆(ば)塞(そく)が流れを汲み、孜々(しし)として、修行に身をゆだねてきたが、それでもまだ聖護院の役座にさえ登れず、旅山伏の弁海が、やっと本(ほん)地(じ)印(いん)可(が)(*)の播(はり)磨(ま)房(ぼう)弁(べん)円(えん)と名が変って、山伏仲間で、すこし顔が知れてきただけのものだ。

――そして久しぶりに、都の様子を身に来て見れば、綽空めは、またぞろ、前(さきの)関白(かんぱく)家(け)の聟(むこ)になるとか、ならぬとか、いつもながら、問題の人物になっている」忌々(いまいま)しげに、弁円は、小石をつかんで、叩きつけた。

その昔の寿(じゅ)童(どう)丸(まる)――成(なり)田(たの)兵(ひょう)衛(え)の子の成れの果て、播磨房弁円は、自分の幼少と、綽空の幼少時代とを、瞼(まぶた)に描き較(くら)べていた。

二十幾年の歳月が経っている――。

綽空が十八(まつ)公(ま)麿(ろ)とよばれ、自分が寿童丸といわれたころは、共に、一つ学舎へ通っていたものである。

そして、彼が落(おち)魄(ぶ)れ公(くげ)卿の子と嗤(わら)われ、ガタガタ牛車(ぐるま)で日野の学舎へ通う時、自分は時めく平(へい)相国(しょうこく)の家(け)人(にん)の嫡(ちゃく)子(し)として、多くの侍(さむらい)を共につれ、美々しい牛車に鞭(むち)打(う)たせて、日ごとに、学者の門で誇ったことも覚えている。

それからは、平家の衰運と共に、すべてが、逆になってしまった。

彼が、一歩ごとに、名と実力を蓄(たくわ)えてゆくのにひきかえて、自分は、どうだったか、自分の辿(たど)ってきた道と、現在のこの姿は――

弁円は、とても、眠られるどころではない瞳をあげて、強(こわ)い眉毛の蔭から、星を仰いだ。

「俺は敗けた、形において。
……しかしそれは俺が懶(らん)惰(だ)だからではないぞ、俺は、この通り、修行しているのだ。
しかし、おれには、あいつのような世渡りのお上手や才気がないためだ。
この際、綽空の奴を懲(こ)らしてやることは、仏界の粛正になる、彼奴(きゃつ)のような小才子が、権門にとり入り、戒律を紊(みだ)し、世に悪評を撒(ま)くのを、俺は、目視していられない立場にあるのだ。
よしっ! 俺はやる! 俺は身を挺して、この奸(かん)僧(そう)を追わねばならぬ使命をうけている!」

何事か、決意したように、弁円は強くつぶやいた。

すると――満身をつつむ彼の毒炎に水をそそぎかけるように、暗い河原のどこかで淙々(そうそう)と、琵琶(びわ)の音がながれてきた。

*「本地印可(ほんじいんが)」=本地は、仏教で、現生の人の姿をして現われた仏・菩薩の本体。印可は、弟子の修行が十分だと認めて証明認可すること。