春彼岸 お浄土に生まれし人にみちびかれ(後期) 

「生前」という世界

愛する人、大切な人との別れほど悲しいものはありません<愛別離苦>。

確かに、直接にお声を聞いたり、お姿を拝することのできない悲しさ、寂しさはありますが、ただ、それだけではないようです。

私たちは先祖代々、先立たれた方々の人生(いのち)を、この世(現世)だけで見てはいませんでした。

それは、お葬式の時などに、余り深く考えることなく、「○○さんには、ご生前、大変お世話になりました」「生前、○○は、よくこんなことを言っていました」などという言葉を使っていることからも、うかがうことができます。

この場合の「生前」とは、「来世に生まれる前の生」、浄土真宗の教えから言えば、「お浄土に生まれる前の生」、つまり「この世(現世)」のことを指しています。

そして、「生前」という世界は、既に、お浄土に生まれた方の視座より、いのちをとらえた表現といえます。

そして「お盆」「お彼岸」等の仏教行事を大切にします。

それは、先立った方々は、遠くに行かれたのではなく、私たちは常に見まもられていると感じ、亡き方々を身近に、親しみをもって感じているからではないでしょうか。

ちなみに、「生前」に近い表現として、「故人、存命中」という言葉がありますが、この表現は、「この世」のいのちに限定した言葉に過ぎず、宗教的ではないと思います。

別れは人生を深くする

「であいは人生を豊かにし 別れは人生を深くする」、という言葉にであいました。

この世でご縁を頂いた方々から、人生において大切なこと(生きる意味や智恵など)を教えていただきます。

今、恵まれた人生に感謝せずにはおれません。

しかし一面、であうということは良いことばかりではなく、嫌だ(しんどい)と感じる方々ともであい、生活をしていかなければなりません<怨憎会苦>。

そうしますと、相手の方の素晴らしいところ(お徳)には、なか

なか気づけず、逆に、欠点と感じることばかりが目に付くようになってしまいます。

そして、やがて別離(死別)をむかえます。

すると不思議なもので、「生前」に感じていた印象が薄れ、ぼんやりながら、その人の実像全体を冷

 静に見ることができるようになります。

 「生前」のわだかまりよりも、良い想い出の方が浮き上がってきます。

 愛しい人ほど、良い想い出が何度もよみがえってくるものです。

 そこには、ありがとうございましたという感謝の思いと、申し訳のないことでしたという後悔の念が残ります。

 別れを通すことによって、以前より素直に向きあうことのできる世界があるようです。

 別れは人生を深くします。

 脚本家の山田太一さんは、「亡くなった人を忘れずに、思い出すことのできるのは、生きている人の能力と、人格だ」とも言われました。

 みちびかれる人生

「お葬式」は単なる別れの儀式ではありません。

ただ単に、人の死を悼む場でもありません。

すでにお浄土に生まれた人が阿弥陀如来さまのお悟りの世界より、この私に、「これが、あなたの姿なのですよ。

他人事ではないのですよ」と怠惰な日常に目覚めをうながしています。

そして「いつ、どこで、どのようにしてお別れしても、間に合わなかった、手遅れであったということはありません。

先手のお慈悲にいだかれているのですよ」と呼びかけておられます。

お念仏を大切に、この人生を歩むことが、先立った方の願いに応える道であることを再確認したいと思います。

仏教に「お育て」という言葉があります。

この世での「お育て」のみならず、この世のいのちが尽きるまで、お浄土から「お育て」を頂いていくのです。

よく「生前」に話しておられた言葉、口に出さずとも後姿、生き様で伝えてくださったことが、後々、残された方の生きる指針(糧)として生かされていきます。

親鸞聖人は「前(さき)に生まれんものは後(のち)を導き、後に生まれんひとは前を訪(とぶら)へ・・・」と申されました。

ご先祖をはじめ、有縁の方々のみちびき(お育て)の中に、今の私が存在しているのでした。

春のお彼岸の季節です。

彼岸(お浄土の世界)は、此岸(この世、娑婆世界)を照らし、あるべき方向と意味を指し示して下さっています。