親鸞 2014年3月16日

「畜生っ」覚明は、かまれた脚をあげて、黒犬の顎(あご)を蹴った。

きゃんッ――悲鳴をあげて、熊野犬は、薄赤い腹を見せてころがったが、その尾の端へ、勢いよく廻っている輦(くるま)の轍(わだち)が乗ったので、さらに、ふた声ほど、鋭く啼(な)きたてて、横っ飛びに、群集の中へかくれこんだ。

そこに――その犬の逃げこんだ所に、一人の山伏の顔が見えた。

聖護院に籍(せき)を持つ播(はり)磨(ま)房(ぼう)弁円である。

さっきから、群集の中にまじって、煽動したり、自分も怒号したりしていたのであったが、黒が、血まみれになって、足もとへ帰ってきたのを見ると、もう、理性のささえを失ったように、

「この野郎ッ」喚(わめ)いて、輦(くるま)のそばへ、寄ってきたかと思うと、腕をのばして、藤色の縁(ふち)に朱の絹房(きぬふさ)の垂れているそこの簾(すだれ)を、ぱりっと、力にまかせて、引き千(ち)断(ぎ)った。

裂けた御簾(みす)の糸や竹が、蜘蛛(くも)の巣のように、弁円の兜(と)巾(きん)へかぶさった。

そして、輦のうちの綽空の横顔が、雲を払った月のように、鮮やかに彼の眼に映った。

積年の憎悪と、呪いとが、弁円の踵(くびす)の先から満身へ燃えあがった。

彼は、輦(くるま)のうちへ、唾(つば)を吐きかけて、早口に、

「堕地獄ッ」と、罵(ののし)り、

「それでも、貴様、人間か、僧侶かっ。なんの態(ざま)だっ、馬鹿っ、仏法千年の伝統を蹂躙(じゅうりん)する痴漢(しれもの)め! こうしてやる!」

杖を持ち直して、ふりかぶると、性善坊は後ろから組みついて、

「無礼者っ」

投げようとしたが、弁円も強(したた)かに反抗した。

かえって、性善坊のほうが危ないのである。

覚明はそれを見て、

「おのれ」と、弁円の肩を、鞭(むち)で打った。

輦(くるま)の上からその時初めてした綽空の声であった。

「――これっ、二人とも控えぬか」

「はっ……」

「他(わき)見(み)すな! 道ぐさすな!」

「轍(わだち)にかかる石、雑草にひとしいもの、それらに関(かま)うな、惑うな。

ゆくては、本願の彼(ひ)岸(がん)、波も打て、風もあたれ、ただ真(ま)澄(すみ)の碧空(あおぞら)へわれらの道は一すじぞと思うてすすめ、南無阿弥陀仏の御名号のほか、ものいう口はなしと思え。

石に打たるるも南無(なむ)阿弥陀(あみだ)仏(ぶつ)と答え唾(つば)さるるも南無阿弥陀仏と答えるがよい。

――見よやがて、この数万の大衆皆、それについて、南無阿弥陀仏を一音にとなえ奉る日のあることを!」

「笑わすな!」弁円が、ふたたび跳びかかろうとするのを振りすてて、

――なむあみだぶつ。

――なむあみだぶつ。

血にまみれた頭も拭(ぬぐ)わず、汗にまみれた顔も拭わず、性善坊と覚明は真(ひた)向(む)きに輦(くるま)をひき出した。

この声、この力、天地に響けとばかりに。

――なむあみだぶつ。

――なむあみだぶつ。