『近くして見難きは我が心なり』(前期)

7月に入りました。

早いものでもう1年のちの半分が過ぎたことになります。

日々の生活に追われる毎日の中で時の流れの早さを改めて感じることです。

私の二つの眼は前を向いており、外を向いています。

それゆえ内を見ることはできません。

仏さまの教えにであうことによって内がみえてくるのです。

仏さまの眼は半眼です。

それは、半分は外を見て、半分は「我が行動や我がいのちに目覚めよ」と、教えてくれているのです。

しかしながら私は外ばかりを見て、人の欠点などを探してしまいます。

そして、良いことは「私がしてあげた」と言い、悪いことは相手のせいにしてしまいます。

以前、親戚のご法事でのことです。

普段はなかなか会えない方々が集まり、お勤めが終わった後、食事をしながら、先にお浄土へ生まれて往かれた方々のことを懐かしく話しておりました。

すると、親戚の中のある方が「兄さんも亡くなった。姉さんも亡くなった。本当に寂しくなった」と、しみじみと語りました。

それに同調するように他の方々も「そうだよね。そうだよね。1人ひとりお浄土へかえっていくんだよね」と話しておられました。

しかしながら、私も含めて「今度は私の番かもしれないなあ」と言った人は誰一人いませんでした。

人は、いつかは、いのち終わっていくということはよくわかっていても、それは他人であって自分ではないと無意識のうちに思い込んでいるのです。

これが迷いそのものなのです。

仏さまの教えに照らされて、自分だけは例外だと無意識に思い込んでいる誤りに気づき、迷いの中にいる自分であったと知らせていただくのです。

仏さまの教えに照らされるとき、いままで外にだけ向いていた私の心が内に向かい、いよいよそういう自分のお恥ずかしい姿が明らかになるのです。

仏さまの教えを聞かせていただきながら自分自身が目覚めていくことが大切なのです。