親鸞 2015年7月4日

みな驚いて戸外(そと)へ出てきた。

昼の事件が、誰の頭にもあったので、すぐ、

「すわっ」と感じたのは、叡山の者が復讐に来たということであった。

ところが、牛飼の者は、

「師の房様が、気でも狂わしゃったか、輦(くるま)を、ご自分の手で、あのように焼いてしまいなされた」と、舌をふるわせていうのである。

まことに、誰が見ても、怪しむほかない善信の姿だった。

彼が放(つ)けた火は、もう消すにも消しようのない大きな焔(ほのお)のかたまりとなって、炎々と、妖(あや)しい火の粉を星月夜へ噴きあげている。

黙然(もくねん)と、その火を、善信はすこし離れた所に立って見惚(みと)れているのだ。

――照らされている白い顔が、微笑すらうかべているように見える。

「なんで」

「どうなされましたか」

「師の御房――」

口々にいいながら、性善坊やその他の人たちが、彼のそばへ、驚きの顔をあつめてきた。

そして、焔と、師の顔いろを、粛然と見くらべた。

「芥(あくた)を焼いているだけのことじゃ」

善信のことばは、一丈もある焔のかたまりに対して、水のように冷静だった。

「――こういう物に、ふたたび乗る善信でないゆえに。また、この草庵に無用な雑物は、念仏の邪(さまた)げとなるゆえに。

――なお、きょうの出来事すべて、この身の落度と思うにつけ、自戒のためにも、こうするのじゃ」

人々は、首を垂れていた。

すると、その人たちのあいだから、侍女(かしずき)に手つだわせて、見事な衣装や女の道具を、惜し気もなく、焔のうちへ投げ込む者があった。

見ると、裏方の玉日なのである。

その調度の品々は、みな彼女が、生家の九条家からほんの手廻りの物として運んできた婚礼道具であった。

「……むむ」

善信の唇は、それを眺めて、なんともいえないうれしさを綻(ほころ)ばした。

――それでこそわが妻。

と、心のうちでいっているように、また、この焔こそ、夫婦の心を、一つに熔(と)かす真実の鉱(こう)炉(ろ)であると見入るように、さばさばとした顔をあくまで紅(ぐ)蓮(れん)に向けていた。

輦(くるま)を焼いたので、牛は牛小屋から解かれ、牛飼と共に、翌る日、九条家へ帰された。

玉日は、たった一人の侍女(かしずき)もそれにつけて、実家(さと)方(かた)へもどした。

さて、その他の弟子たちへも、善信は、思う仔細があればといって、暇(いとま)を出した。

絶縁というわけではないので、性善坊も、師の気持を察して、旅に出た。

――めいめいも、行く先を求めて、岡崎を離れた。

草庵は、二人だけになった。

――急に無住のようなさびしさにつつまれた。

「こうして待とう」

善信は、妻へいった。

玉日もうなずいた。

待つとは――いうまでもなく、叡山の者の報復(しかえし)である。

あのまま黙っている山門の大衆(だいしゅ)ではない。

あれから数日、音(おと)沙汰(さた)のないのは、むしろ大挙して襲(や)ってくる険悪な雲の相(すがた)を思わせるものがある。

(襲(き)たらば?――)というようなことも、その時の覚悟なども、善信は一切、妻にいっていなかった。

けれど、玉日の容(よう)子(す)を見るに、朝な朝な、身ぎれいに、いつでも死ねる支度は心にしているらしくあった。