親鸞・悪人編 松虫と鈴虫 2015年8月10日

暦(こよみ)の上ではもう秋といわねばならぬが、気象は夏型のままだった。

久しく雨を忘れているような空に、きょうもうごかせぬ雲を見せ、宇宙は大きな倦怠状けんたいじょう)そのものだった。

この倦怠と無変化を、残暑とよんで、人の生態も、ふしだらや無気力が自然とされ、東山の高さから洛内(らくない)をながめても、炎天のうちは、大路大橋(おおじおおはし)を往く人影もなく、乾きぬいた町家の屋根は反りかえり、加茂川の水は涸れほそって、堤(どて)の柳も埃に白くうなだれた例としか見えない。

月見も近い八月の中旬(なかば)というのに今年はこれである。

――変化が欲しい。

何がな、変化を求めてやまないような意欲が、息ぐるしげな木々の葉にも、道の辺(べ)に這う露草の花の頸(うなじ)にさえあった。

「なんという暑さでしょう」

「山を歩くと、汗が出て」

「ま……せっかくのお美しい化粧が、だいなしに汚れましたこと」

「あなたも」

「ホホホ。――でも、御所の局(つぼね)のうちに、じっと装束を着て、かしこまっているよりは」

「それはもう、較べものにならないほど、きょうは楽しゅうございました」

「この大空を、伸々(のびのび)と、見ているだけでも――」

東山のあちこちを、そぞろ歩きしている二人の若い女性(にょしょう)があった。

籠(かご)から放たれた小鳥のように、この女性たちは、他愛なく、ききとしていた。

清水(きよみず)へも行った、祇園へも詣でた。

――そして今、黒谷のほうへ降りてきたのである。

「松虫様」と一人は、一人のほうを呼んでいたし、松虫は、連れの者を、

「鈴虫さま」と呼んでいた。

どっちも、似たような身装(みなり)をしているが、面(おも)ざしは、違っていた。

松虫は、すこし年上で、十九ぐらいと見えるし、鈴虫は、十七歳ほどに見える。

すらりと、上背丈(うわぜい)があって、面長のほうが、その年上の松虫だった。

愛くるしい――何かにつけて、表情に富んでいて、深い笑くぼが、絶えず明るい顔になだよっている――どっちかといえば、時世的な容貌を鈴虫のほうは持っていた。

「あら」と、その鈴虫が、とある門前へ来て、かるくさけんだ。

「松虫さま、どうしたんでしょう、牛車(くるま)が見えません」

「ま。――ほんとに」

「あの、暢気者(のんきもの)の牛飼は、いったい、どこへ行ってしまったんでしょう」

「少し耳が遠いようですから、私たちが、ここへ来て待つようにといったことばを、聞き違えて、飛んでもない所へ行って、悠々と、昼寝でもして、待っているのじゃないでしょうか」

「そうかもしれない」ちょっと、麗わしい眉をひそめて――

「どうなさいます」

「歩きましょう」

「まだ疲れません?」

「ええ、ちっとも」

二人はまた、木蔭の日陰をたどって、歩きだした。

町家の娘ではなかった。

といって、武家の息女とも見えない。

――どこかに、絶えずこの明るい外気を楽しんだり、往来のさまや、空の青さを、心から珍しがっている様子から見るに、よほど、ふだんは外に出ない境遇にある人だということはわかる。

町の女のように賤しくなくて、そういう生活にある者といえば、さしずめ、このふたりは、御所の裡(うち)に仕えている女官にちがいあるまい。

――松虫といい、鈴虫という名も、局名(つぼねな)とすれば、うなずける。

「――鈴虫様、これからどこへ行きますか」

「さ?……どこでも」

「御所へ帰るのは、まだ早いし……」

と、焦げるような空の陽(ひ)を仰いで、

「なんだか、少しの刻(とき)でも、惜しい気がしますものね」

※「局名(つぼねな)」=局は宮中の御殿内の仕切った部屋。その局に住む女官の名。一般社会での本名のほかに、局でのみ通用する優美な名をつけた。松虫・鈴虫などがその局名。