親鸞 2015年9月19日

上皇が熊野へ行幸(みゆき)のあいだは、御所のお留守の者ばかりなので、参内する公卿(くげ)もなかったし、公用もほとんどなかった。

「かかる折こそ」

とばかり、舎人(とねり)たちは、宵の早くから酒を持ち込んでいるし、上達部(かんだちべ)たちは、宴楽に耽(ふ)けっているし、衛府(えふ)の小者などは、御門が閉まると、交(かわ)る交る町へ出ては、遊んで帰った。

今も、一人の衛府の者が、酒のにおいを隠して、どこからか戻ってきたが、彼が、衛府の溜(たま)りへ入りかけると行きちがいに、小門の外へ、すうっと出て行った人影がある。

「おや?……」

と、振向いて、彼はそれを見ていたのである。

人影は二人であった。

被衣(かずき)をふかくかぶっていた。

ちょうどその夜は二日月の研(と)がれた影が薙刀(なぎなた)のように大樹の梢に懸かっていた。

青い月明かりに、何か夢の中の人間みたいにその被衣は光っていた。

――ひらっと、蛾のように、御所の外へ二つの影が消えてから、衛府の男は、独り言につぶやいたのである。

「局(つぼね)の女房たちも、こんな晩は、男が恋しとみえる。……だが、忍びでもすることか、御門を大びらに恋の通い路にされちゃあ困る。何ぼなんでも、俺たちがお役目として困るじゃないか」

それから、衛府の番小屋に入って、ほかの同役の者たちと笑いさざめいていると、大宿直(おおとのい)の公卿(くげ)から下役の吏員(りいん)が駈けてきて、

「これ、衛府の者」

と、外で喚(わめ)く。

「はっ」

小舎(こや)を開けると、吏員は、何か狼狽した顔つきで、息を昂(たか)めていうのだった。

「――今し方、誰か、御門の外へ出た者を見なかったか」

「さ?……誰か、御門を通ったろうか。おれは知らぬが」

一人がいうと、

「おれも知らん」

「わしも」

恍(と)ぼけた顔を見合せた。

「はてな、小門のほうは」

「小門は、宵のうちは開けておりますが」

「では、誰が外出(そとで)してもわかるまいが」

「そのために、私どもが視ておりますので、出入りに不審があれば咎(とが)めまする」

さっき、外から戻ってきた男は、すれちがいに見かけた二人の被衣の女房を胸のうちで思い泛(う)かべたが、

(下手なことを云い出しては)と、口をつぐんで黙っていた。

大宿直の吏員は、

「では、裏門の方かもしれん」

つぶやいて駈け去った。

「何じゃろう」

――しばらくすると、その騒ぎは、波紋のようにひろがって、衛府や大宿直の室に止まらず、上達部や舎人たちも、総出になって、仙洞御所のうちの大きな事件となってあらわれた。

いや、それは御所の表方ばかりではない。

後宮の局々(つぼねつぼね)でも躁(さわ)ぎ立った。

「松虫のお局がいなくなったそうです」

「いいえ。松虫のお局ばかりでなく、鈴虫様も一緒に見えなくなったんですって」

「えっ、二人とも」

「どうしたのでしょう」

「上達部は、逃げたのだと申しています」

「ま!大胆な」

無事に飽いているここの女性(にょしょう)たちにとっては、自分たちの身に関わらない限り、それは眼をみはるに足る驚異であり、興味であった。