−深くおのれを省みる−

なぜ、私たちは日頃から仏教に耳を傾けることが大切なのでしょうか。

人は誰もが、生まれた以上は幸せになりたいと思っています。

そうすると、幸せを求めることだけが人間にとって重要なことだとすれば、あるいは仏教を聞かなくてもよいのかもしれません。

けれども、私たちは幸せを願っているにもかかわらず、悲惨な状態に陥ることがあったりします。

特に、不慮の事故に遭ったときなど、途方にくれたり、生きる希望をなくしたりすることさえあったりもします。

このような非常の事態に陥ると、それまで宗教に無関心であった人も、神や仏に必死ですがろうとするのですが、この場合、その人の心は一種の混乱状態にあり、動転しているためどの教えが正しい教えであるのか、きちんと見極めることなどとうていできません。

自分を救ってくれそうな、いろいろな宗教の教えに耳を傾けるのですが、この時その人は自分の耳にとって最も心地よく響く甘い言葉を選ぶことになります。

「溺れるものは藁(わら)をもつかむ」と言われますが、藁は掴んでも決して浮かぶことはありません。

そのため、確かに「掴んだ」にもかかわらず、いよいよ沈んで行く自身の有りように驚いて、余計にもがき苦しむことになります。

つまり、自分を救ってくれると思った宗教によって、さらに悲惨に状態に陥っていくことになるのです。

だからこそ、私たちは日頃から真実の教えに耳を傾けている必要があるのです。

なぜなら、心が平常で、理性が働いているときは、人は偽りの宗教を見分ける力を持っているからです。

ともすれば、人は逆境に陥ったときに宗教を求めようとするのですが、順境にある時に真の宗教を選びとり、その教えに熱心に耳を傾けていると、たとえ逆境に陥ったとしても、それまでに聞いていた教えがその人を救ってくれます。

このことについて『金光明経』には、次のように説かれています。

深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔する。

他人の善いことを見るとわがことのように

喜んでその人のために功徳を願う心が起きる。

またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに

生活することを願うのである。

この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。

だから、すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心こめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふたたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。

では、私たちは真実の教えをどのようにして選べばよいのでしょうか。

それは、「深くおのれを省みて」と説かれていることから分かるように、何よりもまず、「自分とはいかなる者であるか、その真の姿を知ることによって」だといえます。

どのような宗教も、人に悪を勧める宗教はありません。

必ず、人生における「善」を勧めています。

そのため、善がその人に良い結果をもたらすことを信じて、人はその教えに生きようとするのです。

そこで、人は「善きことに親しみ悪しきことから遠ざかろう」としているのですが、この場合、私たちは仏の教えを善悪の判断の基準に置かず、自分が善だと思うことを善とし、悪だと思うことを悪だと考えてしまいます。

ところが、この善悪は、自分が置かれている状況によってどうにでもなってしまいます。

そのため、私は自分が善だと思っていることを成しているのですが、仏教では自分が善だと思っているそのすべてが、実は迷いの因なのだと教えます。

このことを踏まえて善導大師は、自分自身を

いま現にここにいる自分は、罪悪生死の凡夫であって、無限の過去から今日まで、常に迷いの世界に沈み流転し続けて、まったくこの迷いの世界から出る縁に恵まれなかった。

と、述べておられます。

では、善導大師は無限の過去から迷い続けてきた自分に気づくことができたのでしょうか。

それは、『金光明経』に説かれているように、「深くおのれを省みて、自分の罪と汚れを自覚し、懺悔」されたからです。

そして、何よりも今の自分のあるがままの姿を知ることができたからです。

それと同時に、善導大師は自分が仏法を聞く縁に恵まれたことを心から喜ばれます。

ことに、阿弥陀仏の名号を聞き、この仏の本願が自身を摂め取ってくださっていることを

阿弥陀仏の四十八願は、迷える衆生を摂め取っていてくださいます。

したがって、衆生には、何の疑いもはからいも必要ではありません。

阿弥陀仏の願いのはたらきにまかせて、必ず往生すると信じればそれでよいのです。

と、喜んでおられます。

ここで、私たちは仏とは何かを知ることが求められます。

お釈迦さまは、悟りを開かれた後、迷える人びとを救うために伝道の旅を続けられました。

悟りの智慧を開かれたが故に、救いを求める人びとを悟りに導くために慈悲の実践を続けられたのです。

そうだとすると、最高の仏・無上仏(阿弥陀仏)は、すべての人びとを救うために、私たちが願うに先立ってすでに人びとの心に働きかけていることが知られます。

だからこそ、私たちが仏の教えを聞くことによって、自らの迷える姿を知り、その姿に慚愧して仏の願力を信じれば、そのときその人は救われることになるのです。

このような意味で、仏教とはどこかの誰かのことを語っているのではなく、私について明らかにする教えだといえます。

そうすると、日頃から仏教に耳を傾けるのは、何よりも「深くおのれを省みる」ため、具体的には本当の自分に出遇うためだということになります。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。