『いのち多くの願いの結晶』(後期)

いつも本堂で一緒にお参りをしている幼稚園の年長組の子どもたちと、仏様の教えの中でも大切な「私たちは生かされているんだよ」ということを一緒に考える機会を持ってみました。

「生かされている」ってなかなか難しいので、まずは、私たちは、いろんな人に助けられて生活しているということから考えてみようと思って、こんなやり取りをしてみました。

「みんなに質問です。今朝起きてから今まで、みんなはどんな人に助けられましたか?」

子どもたちの反応は、と言うと

「??」

「えっ?」

「なになに」

という顔をした子たちがほとんど。

中には、「助けてなんかもらってないよ!!」と言い切る子もちらほら。

助けてもらうと突然聞かれても、なかなかわからないですよね。

質問の仕方が悪かったんだなあと反省しながら、こんなふうに聞いてみました。

「じゃあ、今朝自分で起きて、自分でご飯を作って食べた人は?」

手はあがりません、

お母さん、お父さん、おばあちゃんなど助けてくれている人の名前が、次々にあがってきました。

そうだよねと言葉を返しながら、続いて、ほとんどの子がバス通園なので

「みんなは、今朝はバスで幼稚園に来たよね。じゃあ自分でバスを運転してきた人は?」

と尋ねてみました。

予想通り、

「園長先生、何言ってんの」

「僕たちが運転できるわけないじゃん」

「運転手さんが運転してくれたんだよ」

と、最後には怒られました。

でもそういいながらも、子どもたちも、何を私が聞こうとしているのかがなんとなくわかってきたようです。

そんな顔をし始めました。

「そうだよね、運転手さんにも助けてもらっていたんだよね」

そこで次へのステップです。

「みんな、今日はお洋服を着ているよね。自分でお洋服を作った人は手をあげてみて?」

またまた子どもたちは怪訝な顔をして

「洋服屋さんで買ったんだよ」

「この前お母さんと○○に買いに行ったもん」

そこで、

「だよね。みんな買ってもらったんだよね。じゃあ、そのお洋服を作ってくれた人のことをみんなは知ってる?」

もちろん、誰もが「知らない」という反応。

自分の知っている人が自分を助けてくれていることには気づけても、自分の知らない人が自分を助けていることにはまだ気づきにくいものです。

私たちの生活は、自分の知っている人だけでなく、むしろ自分の知らない、たくさんの方々の力で支えられているのだという一端を

子どもたちと共有できたかなと思いました。

「みんなの知らない人も、みんなのことを助けてくれているんだよね」

「一人で生きているのではなくて、たくさん助けてもらって生きているんだよね」

幼稚園の年長組さんとはここまででした。

後日、地域の小学校の3年生の子どもたちに、「いのちの授業」をする機会がありました。

同じような趣旨で、小学生ですからもちろんやり方は少し変えながら、自分が支えられているということの気づきを身近なところから始めていきました。

3年生ですから、人だけではなく、他のいのちや自然にまで視点は及びます。

時間もさかのぼり、空間もどこまでも広がっていきました。

最後は宇宙にまで。

3年生には、あるおじいちゃんの言葉を紹介しました。

そのおじいちゃんは、

「おいくつですか」と聞かれると

「わしは○○才、足す35億才」

と答えるそうです。

はじめは笑っていた3年生の皆さんもおじいちゃんの言葉の意味が分かると、うなづいていました。

そのうなづきは

「私たちは、一人で生きているのではない」

「私たちはいろんな命に助けられて(生かされて)生きている」

「いのちは自分では思うこともできない多くのいのちに生かされている」

ということへのまなざしとなるはずです。

そして自分のいのちが多くの願いのなかにあることへのうなづきとなっていくでしょう。