老病死から学ぶ仏教(下旬)大切にしたい「文化」と「本物の言葉」

私は、NPOで認知症、精神障害、発達障害のある方などと関わった活動をしていますが、一番大きな活動は、お寺のすぐ裏にある昔ながらの家で、認知症のある方のグループホームを運営していることです。

「むつみ庵」というところで、現在9名の方が暮らしておられます。

もとも地域にあった住居ですから、近所づきあいの延長のような感覚で生活できますし、「古民家改修型」で、不合理なものも多いのですが、むしろそれを大切にしています。

また、大きな施設と違い、小さな生活単位でのフルタイムケア。

これが元気な認知症の方にとても良いと私は実感しています。

さらにここは「お寺檀家制度アル活用の家」なのです。

檀家さんに全面的に協力してもらって運営できています。

今でもスタッフの9割は檀家さん。

地域雇用にも一役買っていると思っています。

これだけ地域コミュニティーの形が変わってくると、お寺の檀家制度も新たなポテンシャルがあると、そんなことも考えます。

床の間や仏間など、あってもなくても暮らせますが、不合理なものでも「ある」と「ない」では違いが出てきます。

頭で考えるよりもずっと生命を支えてくれます。

不合理なもの、それは文化です。

そもそも不合理から発生し、その地域で地域の特性として継承されているのが文化です。

文明は、理屈に合ったものですから、近代文明は世界仲に拡大していきました。

ただ、文明によって近代化された場所は、どこも同じ景色で、そこに暮らす人はだいたい同じようなことで悩んでいます。

自殺やうつ病などです。

合理的なものは「頭の栄養」になりますが、不合理なものは「体の栄養」になります。

「体の知性」です。

これを哲学では「身体知」と呼びます。

この「体の知性」が、先人たちからのパスをキャッチする心と体を育てる面もあるのです。

今まで合理的であればいい、便利であればいいと夢中で進んできた成長期でしたが、成熟期になると、もう一度「文化」について考えるとか、「不便だけど、大事なもの」を考える時期にきています。

改めて「環境と私」というのを考える時期でもあると思います。

みなさんが、ご法座に通われているのも、そこに「本物の言葉」があるからです。

「本物の言葉」というのは、どこかに潜んでいて、そして絶体絶命のときに浮き上がってきます。

ですから、ぜひ、仏法が説く本物の言葉に出会っていただきたいと思います。

親鸞聖人は、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず」と、述べておられます。

我々は、具合の悪い心であっても臨終のその瞬間まで、絶えず、消えずというような人生を送らなければならず、死後もあえて続く道を歩み続けなければなりません。

そのためにこそ、本物の言葉は体に潜む。

本物の言葉は体に潜んで、絶体絶命のときに、また浮がび上がって自分を救ってくれます。

我々は、お念仏の教えをいただいて難しいお説教は覚えられなくても、「南無阿弥陀仏」とお称えします。

お念仏は身にしみこんで、嬉しいときも悲しいときも、絶体絶命のときにも立ち上がって自分を救ってくれる、そういうものです。

死をも乞えてずっと続く道を歩む。

これこそ、この社会をはるかに超える、本物の言葉と味わい、いただければと思います。