『仏心ともに悲しみともに喜ぶ』(後期)

私たちは、他人(相手)が心の中で何を考えているのか、本心はどう思っているのかを知ることはできません。

特に日本人は世界の他の国の方々から見ると、「本音と建前」という言葉があるように、本音とは違う言葉を口にしたりするため、何が本当のことかわからなくなるという事を聞いたこともあります。

また、実際に行動に移さなくとも、口に出さなくとも、心の中では、他人・大切な家族や兄弟、友人にさえ見せられないような酷い心(思い)をもったことは誰にもあることではないでしょうか。

仕事の関係で、刑務所へ出向させていただくことがあります。

初めて刑務所へ出向させていただいたのは、今から4年程前ですが、今でも忘れることが出来ないできごとがありました。

私たちが日常を暮らしていると、滅多に刑務所へ行く機会はないと思います。

私もニュース等で少し見るぐらいで、実際に行くまではどこか遠い世界のことのように思え、自分が刑務所へ行くようなことを考えたことすらありませんでした。

門を抜け、刑務官にご案内いただき、用事を無事に終えることができました。

その後、私が初めての出向であることを聞かれた刑務官から、施設の概要と少しの見学説明をいただくことになりました。

説明を聞きながら、施設内を見学している途中、刑務官が私の顔を見て

「先生、大丈夫ですよ。受刑者だって同じ人間なんですから」

とおっしゃいました。

その言葉に、ハッとさせられました。

初めて施設に入ることで緊張していたこともあったと思いますが、私はどのような心持と表情でその場にいたのか。

恐ろしい場所、怖い人たちがいる場所…、途中で何かあったらどうしよう…、考えれば考えるほど、顔は強張り、目つきはするどくなっていたのかもしれません。

仏法を聞かせていただく身にありながら、同じ人間であるにも関わらず、同じ人間を人として見られていない姿が刑務官には映ったのでしょうか。

私の心はどこまでいっても、自分中心に自分の都合のいいように物事を見、捉えてしまいます。

自分に都合がよければ良い人、自分に都合が悪ければ嫌な人・悪い人。

ともすると、人を人とも思わない、命を命とも思わない恐ろしい姿・心を持ち合わせているのが私たちの本当の姿ではないでしょうか。

どこまでいっても情けない、頼りない我が心、我が姿を思い知らされる、忘れることのできない言葉でありました。

そんな自身の本質に気づきお念仏を聞き続けていかれたのが親鸞聖人という方です。

仏心仏さまのお心とは、ともに悲しみ、涙をながしてくださる。

ともに喜び、うれしいねと言ってくださるお心のことです。

決して他人事とせず、間違いなくどこまでもどこまでもこの私に寄り添い続けてくださる、決して私を一人にはさせないと言ってくださるのが南無阿弥陀仏の仏さまです。

命の全てを愛おしいとおっしゃる。

たくさんの命を通して、数えきれないご縁をいただいて、私が望まなくても、願わなくても、心配で仕方がないと「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の文字の仏さま。

この口で称える声の仏さまとなって到り届いてくださる仏さまでありました。

一切の区別・条件をつけず、悲しいね、悲しかったねと、ともに泣いてくださる。

うれしいねとともに喜んでくださる仏さまの心を聞かせてもらえたからこそ、我が命はもちろんのこと、他の命をも尊いものだと気付かせていただけるのではないでしょうか

あなたもわたしも同じ人間なのですから。