「『還る家』をさがす子どもたち」−いろいろあるね、人生だもん−(下旬)還る家になれた

午後になりました。

小さな教室に町の人がみんな集まってくれました。

両親が来なかったらおばあちゃんが来る。

だけどその中にあの二人の子のお父さんお母さんはいない。

子どもからしたら、どんな父親だった来て欲しかったと思うよ。

「あの情けない父親。女房に逃げられた。あんなだらしない父親だからこうなるんだ」と人は言うかもしれない。

「あれが逃げた母親か」と人は言うかもしれない。

けれども、どんな母親だった来て欲しかったと思うよ。

でも仕方がないじゃないですか。

最初の子は、この事実、現実を背負って生きていかなければならないと覚悟している。

自分が責められるところは何もない。

しかし、この子からしたら、この事実、現実を背負って生きていかなければならないと思うと、どこかの誰かに言ってみたいんじゃないですか。

「おじさん、汚れた空気を吸うとね、汚れた心になるんだよ」ってね。

そんな子に「なんだその意味は」とか「馬鹿なこと言うな、くだらないこと言うな」と言えますか。

もう一人の少年もそう。

お母さんに来て欲しかったと思うよ。

でもお母さんは今日も三時に仕事に行って夜中に帰ってくる。

そして「今日もまた父親が私たちを襲いに来るんじゃないか」、そんな毎日の不安のなかで、誰かに言ってみたいじゃないですか。

「僕、ラーメンだってできるんだからね」って。

そこで「そんなん当たり前だろう。小学校六年だから」なんてことを言われたら腹が立ちますよ。

「僕、ラーメンだってできるんだよ」。

「お前、ちゃんと野菜入れてるか」。

ばかなこと聞いちゃ困るよ。

「ラーメンだってできるんだよ。焼きそばだって」って突っ張って生きるしかないときがあるじゃないですか。

人が弱音や愚痴、悪態をつくとき、それは「こっちをちゃんと見てくれるかな」という思いを込め、叫ぶような思いで言ってるんじゃないですか。

当てにはならないような人には、弱音や愚痴や悪態はつかないんです。

だとすれば、人から愚痴や弱音を言ってもらえるということは、これは信頼されているという“証”なんです。

だから、わが子、孫から弱音や愚痴を言ってもらえないようなお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんだったら、ちょっと悲しいじゃないですか。

生徒から弱音や愚痴も言ってもらえないような先生がいたら、ちょっと考えもんじゃないですか。

講演が終わると、他の子どもはいないのに、行き場がないのか、その二人の子はまだいました。

僕が「まだいたのか」と聞くと「おじさん握手」。

僕はたったいっときだったですけど、二人の子の還る家になれたのかなあと思います。

人には「そんなもの還る家なわけ、ないじゃないか」と言われたって、やっぱりその子たちにとっては、それが還る家なんです。

丸ごと条件なしで「それでいいんだよ」と受け止めてくれる。

無力な自分をね…。

あなたはそんな還る家がありますか。

あの子、あの人の還る家になっているでしょうか。

還る家があるから、人は旅に出れる、旅の辛さに堪えていけるんじゃないですか。