『手を合わせたらケンカはできない』(中期)

私たちの手は握れば拳(こぶし)になりますが、開けば握手もできますし、拍手もできます。

そして、何よりも手を合わせれば拝むことができます。

つまり、私たちの手は、使い方によって争いをすることもできれば、仲よくしたり敬意を表したりすることもできるのです。

ところで、私たちは人と人の間を生きる存在であることから「人間」と形容されるように、他の人と共にこの社会で生きています。

したがって、他の人と争うより仲良くする方が良いことは誰もが知っています。

にもかかわらず、なぜ私たちはしばしば他の人と争ってしまうのでしょうか。

「善人ばかりの家庭では争いが絶えない」という言葉があります。

一見すると、これは善人ではなく悪人の間違いではありませんかと問いたくなりますが、やはり善人です。

それは、私たちが日頃、誰かと争っている時のことを振り返るとよく分かります。

例えば、誰かと言い争っている場合、私たちは自分が正しいと思うが故に、自らの考えを主張しているのですが、その途中で「もしかすると、自分の方が間違ってるかもしれない」ということに気付いたとしたらどうでしょうか。

過ちを認めて謝罪するか、うやむやにするかのどちらかで、おそらくそのまま争い続けることはしないと思います。

保育園でこんなことがありました。

園児が保育室で自由遊びをしていると、保育士が「そろそろおやつの時間だから、みんな遊んでいるものを片づけて、手を洗ってきてね!」と声かけしました。

これを聞いて、プロック遊びをしていた子は、それまで作っていたものをバラバラにして収納箱に戻し始めました。

すると隣で絵本を読んでいた別の園児が、本を棚に戻すとプロックを片づけている園児に「手伝おうか?」と声をかけました。

ところが、声をかけられた園児は日頃保育士から「自分で遊んだものは自分で最後まできちんと片づけるように」と言われているので、「これは私が遊んだのだから、自分で片づける」と言って申し出を断りました。

これに対して手伝いを申し出た園児は、日頃から当番活動に喜びを感じていることもあり、「二人でした方が早く済むよ」と言って、プロックにさわろうとしました。

その瞬間、ブロックで遊んでいた子が、「やめて!」と言って差し出された手をはらいのけました。

その光景を見た保育士は、それまでの経過を十分に把握していなかったこともあり、二人が争っているように見えました。

そこで「ケンカしたらダメだよ!」と声をかけました。

一人は、最後まで責任を持って片づけようとしている子。

もう一人は、片づけを手伝おうとする子。

「善人」「悪人」で分けると、二人とも良い子(善人)です。

けれども、お互い自らの善を主張し合うことで、第三者(保育士)の目にはケンカをしている悪い子(悪人)に映ってしまったという訳です。

私たちは、漠然と自らの中に「正しい私」というものがいて、その「正しい私」が世の中のさまざまなことを見て、考えてよく判断した上で、正しい何か言い、正しい何かを行っていると信じています。

そうすると、常に私の言動は周囲の人びとから「正しい」という評価を受けるはずなのですが、必ずしもそうとばかりは言い得ません。

なぜなら、私の判断の材料は、今日まで経験してきたこと、知識として身に付けてきたこと、それだけに過ぎないからです。

言い換えると、知っていること以外は何も知らないのにも、あたかも自分の知っていることがこの世界のすべてで、自分は何でも分かっていると錯覚しているのです。

そのために、自分だけは間違っていないという思いに立ち、自らの正しさを主張し合うため「争い」が生じることになるのです。

けれども、「自分だけが正しい」と握りしめた拳を開き、自ら合わせたり、あるいはお互いに合わせると、そこに生じるのは敬いや支え合う心なのではないでしょうか。