『礼儀』という言葉があります。

最近、『おはようございます』『こんにちは』『お疲れ様です』といった挨拶をしたときに、知らんぷりをされてしまうことが多くなっているような気がします。

皆さんはいかがですか。

無視されたり、気づかなかったりするとさみしい想いがするのは私だけでしょうか。

『礼儀』という言葉があります。

この『礼』は人が社会生活上、守り行うべき作法という意味です。

『礼儀』とは、社会秩序を保つために必要とされる人間相互の行動の作法という意味であり、作法はものごとを行うやり方という意味です。

挨拶も礼儀のひとつで、この挨拶があるかないかで、人の心証や印象はだいぶ変わります。

今の時代『礼儀作法は必要ない、礼儀など知らなくても生きていける』という方がいます。

近ごろは、スマートフォンの流行で、直接顔をあわさなくてもコミュニケーションがとれるようになりました。

中には、『スマホやインターネットができる環境であれば、誰とも関わることなく生活ができるし、そういう状態で人と関わらず暮らしていきたい』と言う方もいらっしゃいます。

しかし、そのインターネット環境の先にあるのは、やはり人と人との繋がりです。

インターネットの環境も、そこには管理する人がいますし、またインターネットの世界につなげる端末なども機械ですから、壊れたりします。

壊れたときは修理したり、新しい物を買ったりしなくてはなりません。

それを作ったり、直したりするのもやはり人なのです。

そしてそこにはやはり『ありがとう』と言う『礼儀』が必要なのではないでしょうか。

どんなにいやがっても、どんなに避けようとしても、私たちは人同士、それぞれ関わらずには生きてはいけません。

人とのふれあいを避け、人里離れた場所に一人で暮らしている方が、インターネット環境を主として暮らしをしていても、壊れたら修理をしてもらうために業者さんに来てもらわなくてはならなくなったとき、もしそこに『礼』というものがなかったならば、一度は来てくれたとしても、二度は来てもらうことはできないのではないでしょうか。

『挨拶をする』ということはそんな『礼』を『礼儀』として伝える大切なコミュニケーションのひとつだと思います。

『礼儀』として、『心』としての挨拶を大切にしていけたらと思います。

みんなで心通わせながら、ともに心温かくすごしていきましょう。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。