親鸞 田歌編 第二の華燭 2016年7月16日

一粒の胚子(たね)がこぼれる所、やがて青々と仏果の穂がそよいでゆく。

花はまたおのずから花粉を風に撒き、自然の命によって自然に行為する昆虫がまた実をものらせ胚子を落とし花のかずを地に満たした。

山水の因果、四季の因果、人のあいだの因果も、かわることはない。

ひとりの聖者が、そこの土に住む力、それは偉大な精神の花の繁殖だった。

親鸞が、北信濃の山村に移ってから、わずか二年とたたないうちがそうであった。

角間から佐久郡一帯は、田に野に山に、生きるをたのしむ人の顔がどこにも見られた。

人生を生々とたのしむ歌、それが念仏の声になってながれ、菜畑、麦の色、馬小屋そのものが浄土に見えた。

――親鸞さん。

といえば、木樵(きこり)も、百姓も、市人(いちびと)も、自分たちの慈父のようになつかしみ、彼のすがたは、地上の太陽のように、行く所にあたたかに、そして親しみと尊敬をもって迎えられた。

その地方の布教に、努力の効(かい)を見た親鸞は、暇があると、山をこえて、越後や越中の国々へもよく杖をひいた。

――また、碓氷を越えて、上野(こうずけ)や下野(しもつけ)の方面へもたびたび出た。

「しばらくでございました」

突然、二年ぶりに、こういって角間の草庵へ顔を見せたのは、故郷の天城へもどっていた生信房であった。

「おう、生信房か、きのうも噂していたところ、よう戻ってこられた」西仏や光実は、いつも変りのない温情で彼を迎えた。

「上人は」と、何よりも先に訊く。

「お変りもない。いよいよお元気でいらせられる」

「それ聞いて、安心した」

と、生信房は落着いて、やがてその後での話だった。

彼は、故郷の天城に、一人の老母をのこしていたが、母の生家が元々、常陸(ひたち)の下妻なので、そこで老後を養いたいというので、母を背に負って、何十年ぶりかで、常陸へ帰って行った。

下妻の人々は、老母を背に負って帰ってきた生信房をながめて、誰も彼も驚き顔をした。

――なぜならば、この老母のひとり息子というのは、天下に隠れもない兇悪な大盗で、天城四郎といわれている者だという噂を前から聞いていたからである。

(その悪名隠れもない一人息子の四郎が、頭をまるめ、しおらしい真似事して、老母の故郷の者を騙そうというつもりであろう。誰が、そのような手にたぶらかされようぞ)

と、相手にする者もなかったが、やがて半年経ち、一年経っても、彼の母につくす様子に少しも怠りがみえないのみか、世間の人々に対しても、思いやり深く、老幼にやさしく、身は奢らず、人には施すという風なので、

(はてな?)

と、人々の視る眼がようやくちがってきたところへ、その老母が病んで逝去(みまか)ると、生信房のなげきは傍目(はため)にも痛々ほどで、幾日も食を断って、母の墓掃(はかはき)に余念なく暮らしている様子を見、

(いよいよ本ものだ)と、彼の今日を、世間で認めてきたのであった。

そして同時に、(いったいあのすごい悪党の頭領が、どうしてあんな人間に生れ変ったのか?)という疑問が人々の胸にのぼりだんだん彼に今日までの経過を糺(ただ)す者があって、その結果、親鸞上人に師事しているということがわかると、(そういえば、近ごろ、信州に草庵をむすんで、時折、下野の辺りまで布教に来る高徳なお上人があると聞いているが、そのお方ではあるまいか)と伝え合う者があって、やがてその評判が、常陸国真壁の代官小島武弘の耳へも入った。