憲法改正について

7月10日に実施された参議院選挙は、大方の予想通り与党の勝利に終わり、衆議院に続いて参議院でも与党が改憲発議に必要な3分の2を上回る議席を獲得しました。

このことを受けて、今後、現行憲法が施行されて以来、初めて憲法改正が発議される可能性が出てきました。

ただし、与党が両院で3分の2を超える議席を獲得すると、それをもって直ちに憲法改正の発議がなされるという訳ではありません。

可能性が出てきたのは、現在の政権を率いる首相が党是として改憲を志向しているからです。

なぜ、与党は現行憲法を改正しようとしているのでしょうか。

現行の日本国憲法は、1945年(昭和20年)8月15日にポツダム宣言を受諾して連合国に対して降伏した日本政府が、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などに基づき、事実上憲法改正の法的義務を負うことになったことから作成されました。

当時の政府は、連合国軍の占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成しました。

その後、新憲法案は紆余曲折を経て起草され、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6カ月後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。

このような経緯を踏まえて、「占領下に作られた憲法は、国際法上無効だ」と考える人たちが、現行憲法は「押しつけられた憲法」だとして、自主憲法の制定を目指しているという訳です。

ところで、今さらですが、憲法とはいったい何なのでしょうか。

法律は、国家の意思として国民の活動を制約するものですが、それに対して憲法は国民が権力に対してその力を縛るものです。

したがって、憲法を守る義務は権力の側に課され、国民は権力者に憲法を守らせるのが努めだといえます。

もともと憲法は、ヨーロッパなどで国民が王政と対抗する過程で出てきた法の概念です。

絶対王政の時代には、国民が王を制御する根拠も方法もありませんでした。

イギリスでは、国民が議会を編成して王権に対抗していましたが、時に妥協することもありました。

これに対して、徹底的に王権に対抗したのがアメリカです。

アメリカでは、イギリス国王による圧政に対して起こした独立戦争に勝利した後、新生アメリカの王になることを提案されたジョージ・ワシントンが、国王になることを拒否して民主国家を建国しました。

その際、統治責任者を選ぶ必要が生じ、選挙で選ぶ任期付きの大統領職を設けることになったのですが、大統領といえども人間である以上、間違いを犯す可能性は皆無ではないことから、世界で最初の成文憲法が作られました。

これがアメリカ合衆国憲法です。

この経緯から知られるように、憲法の起源には「生身の人間である権力者を管理する」という明確な目的がありました。

この考え方が、「憲法は権力を縛るものである」という立憲主義です。

 いま憲法を改正しようとしている人たちの中には、「権力者だけを管理する憲法でいいのか。

国民を縛らなくていいのか」という考えを持った人たちが、少なからずいるといわれています。

それを裏付けるかのように、自民党草案は,基本的人権を制限できる可能性を認め,国民一人ひとりの自由よりも公益や国家秩序を優先するような体裁になっています。

まさに、憲法において詳細に国民の義務を定めるなど,「国家が国民に向けた『秩序を維持し義務を果たすよう求める』もの」と読めるような内容だと理解されます。

改めて歴史を繙くまでもなく、世界の各地を見渡すと、権力は常に濫用さていることが知られます。

だからこそ、憲法とは国家権力を制限して国民の人権を守るためのものでなければならないのです。

にもかかわらず、そのことを無視して、国民を制限する役割を持った「新たな憲法」を制定しようとする動きがあることは、極めて憂慮すべきことだと言えます。

確かに、現行憲法は施行以来一度も改正されたことがなく、時代の状況によって見直す箇所が出てくることがあるかもしれません。

けれども、「憲法とは国民を縛るものではなく、国家権力を管理するための最高法規である」という一点だけは、決して見失うことがあってはならないと思います。

「憲法議論は難しいしよく解らないのでどうでもいい」という声も良く聞きます。

世論調査でも「憲法が争点である」と考えている人は、あまり多くないという結果も出ています。

けれども、先頃行われたイギリスのEU離脱の是非が問われた国民投票では、離脱決定後、「そういうつもりではなかった」と投票のやり直しを求める多くの署名が集まりました。

将来、もし憲法改正の発議がなされた場合、ことの重大性をよく理解しないまま国民投票に臨み、あとで「改憲」の内実が「壊憲」であったと後悔しないためにも、今後憲法改正についての動きには強い関心を寄せ、いつかきた道を辿ることのないよう心したいたいと思う2016年の夏です。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。