『心が変わると 景色が変わる』(中期) 

 仏教では「迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によってつくられる」と説いています。

これは、自分の中の心が自分をつくるのであり、またその一人ひとりが集まって成り立っている社会もそれぞれの心によって良くも悪くもなるということを明らかにしています。

そこで、仏教では私たちに「正しい行い、正しい生活、正しい努力」をすることを教えとして説いているのです。

 この仏教の説く「縁にふれて、いろいろの心となる(心が起きる)」という教えを転じて、「物は考えよう」と受け取る人がいたりします。

 確かに、これはとても分かりやすい考え方なのですが、「物事は考え方次第で、どうにでも受け止められるものだ」と拡大解釈してしまうと、事実を正しく認識できない場合があったりします。

 たとえば、炎天下で「暑いと思えば暑いが、暑くないと思えば暑くない」とか、極寒の中で「寒いと思えば寒いが、寒くないと思えば寒くない」と頭の中で考えても、そのことによって決して暑さや寒さがやわらぐわけではありません。

 やはり、暑いとか寒いということは温度計が示す通りに認めて、その暑さや寒さをどのように受け止めるべきかという、心の受け止め方を学ぶことが大切なのです。

 また、これは気温の寒暖のみに限ったことでなく、人生における様々な出来事においても、「悲しいと思えば悲しいが、悲しくないと思えば悲しくない」とか、「苦しいと思えば苦しいが、苦しくないと思えば苦しくない」などと考えるのも間違った拡大解釈だといえます。

 悲しみや苦しみといった事実から目を背けようとしたり、ましてや悲しみや苦しみをごまかそうとするあり方でその場をしのごうとするのではなく、悲しかったり苦しかったりする事実を引き受けて乗り越えていくことが大切なのです。

 現代においては、季節にともなう暑さや寒さは、避暑や避寒をしたり、空調機器を用いたりすることによって、ある程度まで快適に過ごすことは可能です。

けれども、縁にふれ折りにふれ予想もしない形で私たちの身に降りかかってくる人生における悲しみや苦しみは、「考え方次第で」嬉しくなったり楽しくなったりはしません。

 ともすれば、私たちは自分にとって不都合なことが起きると、その責任を他に転嫁してしまうことがしばしばありますが、仏教ではこれを「愚痴(ぐち)」といいます。

 一方、自身の身におきたことは、その是非を問うことなく、事実としてどこまでもその身に引き受けていく勇気を「智慧(ちえ)」といいます。

 源信僧都の『往生要集』の中に「苦といい楽といい、共に流転を出ず」という言葉があります。

流転ということは言い換えると、「我を忘れる」「我を失う」ということですが、私たちは苦しい状態にあっても愚痴を言うという形で我を忘れ我を失っていたりします。

それと同時に、楽しい状態にあっても、その楽しみの中に我を忘れて時間を無駄に過ごしてしまうことがあったりします。

つまり、私たちは日々の暮らしにおいて、苦しくても楽しくても、それによって自分を見失ってしまう在り方に終始しているのです。

 また、苦しみというのは「自情に逼迫(ひっぱく)している状態」だといわれます。

自分の感情や気持ちにとって、今の状況が胸苦しく圧迫してくる状態として受け止められる時、私たちはそれを苦しいと感じるのです。

それに対して、楽しみというのは「自情に適悦な状態」だといわれます。

それは、自分の感情に合致しているというあり方のことです。

 この場合、共に「自情に」ということが要点です。

それは「自分にとって」ということです。

決して、世の中に苦しい世界があるのではなく、事実は一つの世界を自分は苦しいものとして生きているだけのことなのです。

したがって、自分が苦しいと感じている状態であっても、その同じ状態を他の人は生きがいのある楽しい世界として生きているということもあったりします。

 このように、苦といい楽といっても、そのいずれをも本当に受け止めることができなければ、苦楽ともにそれによって、自分を忘れ自分を見失ってしまうことになります。

「心が変わると、景色が変わる」ということは、苦楽のいずれにあっても、そのことによって自分というものを本当に受け止め、自分というものを本当に生きていける、そういう世界を見いだしていくことによって実現する在り方だと言えます。