親鸞 2016年9月5日

「おう」

と、垂れこめた簾を徹(とお)して、その時、明らかな親鸞の答えがひびいた。

次に――

「誰じゃ」

それも親鸞の声であった。

 静かに、簾の内の灯のあたりからその人が、起ってくる気配がした。

弁円は、

「うぬっ、ここへ出てうせたが最後――」

 八ツ目のわらんじをじりじりと縁近くへ踏みすすめ、手をかけている戒刀の柄は、もう血ぶるいをするかのようにガタガタとおののき鳴る。

 ――サラと簾を片手で上へかかげて、親鸞はそこから半身を見せた。

そして、朱泥(あけ)で描いた魔人のような弁円の顔をじろと眺め、その眦(まなじり)に、ニコリと長い笑み皺を刻むと、

「オオ」

と、なんのためらいもなく――なつかしい人にでも接しるようにいって――つかつかと竹縁の端まで踏み出してきたのであった。

「――誰かと思うたら」

手をさし伸ばさないばかりな親鸞の様子なのである。

弁円は、春風のような彼の姿と――その手の先から、思わず一歩退いて、

(そんな欺瞞に)と、呼吸(いき)のうちで叱咤し、

(そんな甘手にかかるおれではない)と、満身の殺気を眸にあつめて、炬(きょ)のように睨まえたが、なんとはなく、体の筋を抜かれたように、眸にも、ここへ来るまでの憎悪や兇暴な勢いを絶ちきれなくなった。

「…………」

「…………」

親鸞は、それなりものをいわないし、弁円も黙ってしまった。

――ただ呼吸(いき)をしているのみで、じっと、縁の上と下で、対し合っているのだった。

――火と水のように。

 燃えるだけのものを、弁円は今、五臓から四肢全体に燃やしきっていた。

毛の一すじまで、針のごとくさせて汗をふき、内面の毒炎を、湯気のように立てていた。

「ウウーム」

爪を怒らせて迫った猛虎が、はたと、何かにためらって、その飛躍を遮られているように、弁円は、いたずらに自分の威嚇に持ち疲れてきた。

 この一瞬、弁円の眼に映っている親鸞は、まったく、常々彼が思いにくんでいた親鸞ではなかったのである。

彼の憎悪は、とたんに鉾(ほこ)を鈍らせてしまったのである。

 板敷山の呪壇に、一七日のあいだ、護摩を焚き、呪念をこらして、眼に描きだしていた怨敵親鸞は、さながら自分を呪う悪鬼とばかり見えていたが――今、眼のまえにある親鸞を仰げば、三十二相円満な如菩薩の笑顔そのままではないか。

 弁円は、踏みしめている踵(かかと)の裏から、だんだんに力の抜けてゆく自分をどうしようもなかった。

 彼も、仏者である、聖護院の御内に僧籍のある仏子(ぶっし)である。

菩薩の顔と、邪人の顔と、見わけのつかない人間ではない。

――なんで親鸞は前からこんなよい顔を備えていたろうか。

このほほ笑みが一体人間のものだろうか。

彼の殺意は、だんだんに冷えて行った。

「……ああ……」

思わずうめいたものである。

京都(みやこ)の巷で見たころの親鸞の顔には、もっと険しいものがあった、勝ち気があった、世に負けまいとする鋭い眼があった、物いえば烈々と人を圧しる唇あり、起てば、群小を睥睨(へいげい)する威風があった。

 けれど今のすがたには、そんな烈しい強いものは微塵もない。

これは、弁円にして初めて思い出される記憶であった。

―――今の親鸞の和やかな顔は、十八公麿(まつまろ)と呼ばれていたころの幼顔(おさながお)にそっくりである。

四十を超えてからの親鸞は、いつの間にか幼少の顔のほうへ近くなっていたものと見える。

*「八ツ目(やつめ)のわらんじ【草鞋】」=乳(ち)が八つあるわらじ。修験者などが用いるもので、八つ葉の蓮華をかたどったもの。八つ目わらんずとも。