『人生には必要にして十分なことばかり』(中期)

 私たちは、どのような生き方をしていても、成功することもあれば失敗することもあります。

 お釈迦さまは「この世は苦に満ち満ちている」と説かれますが、「苦」とは私の思い通りにならないということです。

 ところが、私たちはうまくいったことだけを評価して、うまくいかなかったことは不幸だったと切り捨てようしたり、運命だったと諦めてしまったりすることがあります。

 そのため、うまくいっている間はよいのですが、自分の思い通りにならないことに直面しそれまでのあり方に挫折してしまうと、自らの人生すべてを否定したり、後悔の中にその生を終える人もいたりします。

 それは、人生を生まれてから死ぬまでの「長さ」でとらえてしまうからではないでしょうか。

 人生を長さとしてしか考えることができなければ、何らかの大きな失敗や不幸なできごとに襲われたりすると、人生そのものがそこで切断されてしまったような感覚にとらわれてしまうかもしれません。

 けれども「深さ」として人生をとらえることができれば、努力をしたにもかかわらず失敗してしまったとしても、そのことを契機として、人生におけるさらに深い世界に目が開かれるということがあったりするように思われます。

 仏教で「修行」という言葉があります。

 これは、日々刻々に努力を重ねていくあり方そのものによって、自らの身を修めていこうとするあり方のことです。

 もしそういう生き方ができれば、たとえ失敗したとしても、むしろそのことによって大切なことに目が開かれたり、見えなかった世界に目を開いたりする契機となるかもしれません。

 これは、テレビ小説の中のエピソードの一つですが、ある零細企業が作っていたトースーターが、雑誌の企画で行っている商品試験で低い評価を受けたため売り上げが激減し、販売店から製品が続々と返品され困窮するということがありました。

 その会社の社長は、出版社に異議を申し立てに行ったのですが、大手企業に対して製品の安さで対抗しようとするあまり、消費者の利便性を考慮しない製品を世に送り出していることを指摘されました。

 そこで、改めて技術力で勝負することの大切さに気付き、その結果商品試験で指摘された欠点を克服したトースーターを作り出すことに成功し、多くの消費者の支持を得ることができました。

 この社長は、返品の山を目にした時、おそらく自分の今までの一切の努力は水泡に帰してしまったのではないかという、絶望の淵に追い込まれたことと思います。

 けれども、自分を極限状況に追い込んだその指摘事項の中に活路を見出そうとしたことで、大いなる成功を収めることができました。

 それは、失敗したことがただ失敗のままに終わるのではなく、失敗を通して大切なことに目を開かれたからだと言えます。

 私たちは、人生において縁にふれ折りにふれ、辛いことや悲しいことに出会うことがあります。

 とくに、愛する人やご縁深い人の死に直面した時には、言葉では言い表せないような深い悲しみに包まれることもあったりします。

 もし、人生は長さではなく深さだという生き方をすることができれば、死別の悲しみが消える訳ではありませんが、悲しいということを通して、悲しまなくてはならない人生の深さというものに目を開いていくことができるように思われます。

 それは、大切な人を失ったことが、自分を絶望の淵に追い込むのではなく、失ったことを通して、失わなくはならないように人生を生きていた自分自身に眼を開いていく道が開けてくるということです。

 そうすると、人生そのものを「修行」ととらえることができれば、人生の中には「空しい」ことは一つもなくなるかもしれません。

 なぜなら、そこにあるものはすべて必要なものであり十分なものばかりだからです。

 私たちの人生は、単なる喜びや楽しみだけが願わしいものとは限りません。

 喜びと楽しみだけが人生にとって有意なのではなく、悲しみがあり苦しみがあることによって、生きていくということの意味が明らかになるのです。

 このような意味で、人生は必要にして十分なことに満ちあふれているのだと言えます。