『報恩講 親鸞さまに遇えてよかった』(中期) 

 「報恩講」とは、浄土真宗を開かれた親鸞聖人(1173年-1263年)の恩徳に報謝する法要のことで、浄土真宗の門信徒にとっては、最も重要な年中行事だとされてきました。

なお、親鸞聖人のご命日を勤める法要が「報恩講」と言われるようになったのは、親鸞聖人の33回忌にあたって本願寺第3代覚如上人が著された『報恩講私記』に由来します。

 浄土真宗本願寺派(西本願寺)では、毎年1月9日から1月16日までの7昼夜にわたって「御正忌報恩講」が勤修されます。

 全国各地の寺院では、本山・西本願寺の御正忌報恩講にお参りすることができるように、多くは11月から12月にかけて勤められます。

 ちょうど、今頃から来月半ばにかけてが、浄土真宗の寺院においてはいわゆる「報恩講シーズン」といった感じです。

ところが、浄土真宗の門信徒にとって、一番大切だといわれる報恩講への参詣者数が、親鸞聖人の誕生を祝う「降誕会(ごうたんえ)/5月21日」と共に近年減少傾向にあると言われています。

永代経法要、春秋の彼岸会、盂蘭盆会などは、まだある程度の参詣者があるのですが、降誕会・報恩講は参詣者の減少により、法要を勤める日を3日から2日に、2日から1日に減らす寺院が増えているようです。

 なぜ、これまで一番大切とされてきた報恩講の参詣者が減少しているのでしょうか。

永代経法要や彼岸会は先祖の方々の遺徳を偲ぶ法要として、盂蘭盆会は先祖並びに自分が葬儀を営んだ亡き家族を追慕する法要として勤められるのですが、降誕会・報恩講は自分とは直接血縁のない親鸞聖人の誕生日・御命日を勤める法要であることから、人びとの関心が薄れてきているのかもしれません。

それは言い換えると、宗祖である親鸞聖人への関心が薄れてきていることの表れとも理解することができます。

ときに、宗教との正しい関わり方は、その根底に「聞く・遇う・帰依する」という3つの事柄が成立することが必須だと言われます。

なぜなら、その教えがどのような教えかということは、先ず「聞く」ということがなければ知りようがないからです。

私たちは、その教えを聞き正しく理解することによって、初めてその教えと真の意味で「遇う」ことができます。

その後、その教えに「帰依する」かどうかは、その人次第ということになりますが、少なくとも教えを聞くということがなければ、教えと遇うことも極めて難しいと言えます。

 覚如上人が「報恩講」をお勤めになられて以降、宗勢の拡大にともない、浄土真宗の門信徒は京都のご本山(西本願寺)だけでなく、全国各地の別院や寺院、そして集落ごと、さらには個人の家でも、一番大切な法要として「報恩講」を勤めてきました。

けれども、近年、個人宅や集落での報恩講は次第に勤められなくなり、寺院・別院での参詣者も減少傾向にあるということは、親鸞聖人が90年のご生涯をかけて顕かになさった、本願念仏の教えに耳を傾ける人が少なくなってきたからだと思われます。

それは、真の意味でお念仏の教えに出遇っている人が少なくなったということにほかなりません。

 本願寺第8代蓮如上人は、五帖の『御文章』の一帖目第一通において、浄土真宗の教団の確かめを行っておられますが、その中で「(親鸞)聖人は御同朋御同行とこそかしずきておおせられけり」と述べておられます。

「かしずく」というのは「大切に仕える」ということですから、「親鸞聖人は私たちを拝んでいてくださる」といわれるのです。

つまり蓮如上人は、親鸞聖人が「御同朋・御同行」と呼びかけながら、私たちを拝んでいてくださるという事実が、浄土真宗の教団の根源的事実だと言われるのです。

 さて、私たちは自分のすがたを省みて、はたして親鸞聖人から拝まれるような生き方をしているでしょうか。

どうひいき目に見ても、自己中心的な生き方を離れることはできませんし、欲望を抑えられず、時に怒り狂ったり、思い通りにならないとその責任を他に転嫁しようとしたりするなど、まさに「凡夫」そのものの生き方に終始し続けています。

 にもかかわらず、そのような私に親鸞聖人が「御同朋・御同行」と呼びかけて下さるのは、凡夫が凡夫のままで未来仏として約束されているという、そういう確かな事実を拝んでおられたからではないかと思われます。

ただし、だからといって、自分は凡夫だから、やがて仏になれるのだということではありません。

だいたい、仏になれるといっても、仏になるということがどういうことなのか分からなければ、何の意味もないからです。

 親鸞聖人が顕かにしてくださった本願念仏の教えとは、どんな人間であろうと、この世に誕生した限り、その一生を尽くせば仏に成れるという教えです。

したがって、人間の側であれこれ考える必要もなければ、はからう必要もなく、人間にとって決定的に大切なことは「自然(じねん)のことわり」に眼を開くことだけだと説かれます。

そのことは『信巻』に「無上妙果の成じ難きにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し」とはっきり述べておられます。

 これは、仏になるということは、人間の努力や思いを超えたことであり、したがって努力や思索を必要とはしない。

この世に生まれてきた人間は、必ず仏に成るために生きているのであり、ただ人間にとっての課題は「無上妙果の成じ難きにあらず」ということに眼を開くことであり、その開眼を「信心」というのだと述べておられるのです。

 「報恩講」を何よりも大切にして来られた私たちの先人たちは、このような親鸞聖人の語りかけに耳を傾けることを通して、真実の教えに出遇い、浄土を真宗として力強く生きぬいて往かれました。

そして、親鸞聖人が生涯を通して「よき人」と敬慕なさった法然聖人への恩徳を「骨を砕きても謝すべし」と讃えられたように、親鸞聖人が顕かになさった念仏の教えに出遇った人びとは、同様に親鸞聖人にそのご恩を報ずべく講を結び、遺徳を讃えてきたのです。

「親鸞さまに遇えてよかった」との思いから…。